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九十歳の詩

初出『ちば文学』第19

 

  日本国民は奴隷だった

私は 十六歳まで大日本帝国民だった

神である天皇のために死ね 死ね と

若者たちは 戦場へ駆り出されていった

少国民の私たちは

人権無視の労働力扱い

天皇と親への忠義孝行を強いられ

奴隷のように 働かされた

小学校校庭に建つ像の

薪を背負って本を読みながら歩く

二宮金次郎がお手本

子守り 水運び 掃除 使い走り

月月火水木金金と 休みなく働かされた

農家の私は農繁期一日十八時間の

重労働に耐え抜いた

遊び楽しむ時間なんてなかった

誕生日を祝ってもらったことも

お年玉をもらったことも

唯の一度も なかった

農家が老人子供総出で汗水流して収穫した米は

供出と称して超安値で国に買い上げられ

農民自身が食べる分さえ足りなかった

空腹に耐えかね

芋づるやたんぽぽまで食べた

勇気のある人は蛇や蜥蜴も食べた

働いても 働いても

国民は貧しかった

過労と栄養失調の 行き着く先は

結核だった 戦う国の

青年男女に蔓延し

私たち青少年は 多くが結核で

倒れるまで働かされた

病気知らずだった私までが

二十一歳で初めて 病んだ

三か月静養 婚約破棄 青春を奪われた

 

 

  天皇家の資産 世界国王一位

戦いが終わった時 国民は餓死寸前なのに

天皇家の資産が 世界国王一位とは ビックリ仰天!

(吉田祐一『天皇財閥』)

過労と 飢えの苦しみの原因は

これだったのか

これが 天皇制の正体か

 

天皇個人がいかに善良な方であっても

天皇制という制度は怖い と

心の底から 思い知らされた

 

 

  天皇制とは

天皇は神ではなかった

土着民族でもなかった

古事記は嘘まみれ 藤原氏は大嘘つき

万世一系は でたらめ

鳥羽以降の天皇の血筋は 朝鮮半島から渡来してきた

百済王子豊璋こと 藤原鎌足の男系子孫だった

天皇制が続く限り 日本は百済王国だ

「藤原にあらずんば人にあらず」

「薩長にあらずんば人にあらず」

「藤原」は横暴 「薩長」も横暴

どちらも 朝鮮半島からやってきた 百済系朝鮮民族だった

横暴の極みは 百済系ばかり

明治維新はその百済人による天下取りだった

百済人が日本を乗っ取ってしまった

天皇制はその手段にされた

 

天皇制を支えたのは 神道

国家神道は 日本を支配する手段だった

神道の教祖は 朝鮮集落田布施出身の老女だった

 

大日本帝国時代の国策で 特に腹立たしいのは

土着民族を 苦難の荒れ地 収益の乏しい

ブラジルや 満蒙へ追い出した棄民政策(住井すゑ談)である

一方で 多勢の朝鮮民族を 住みやすい

日本へ送り込み 帰化させたことだ

これこそ 確実に乗っ取りではないか

 

古来の 自分の土地ではないから

アメリカに「沖縄をあげます」

と あっさり言えたわけか

 

 

  戦後の日本

敗戦は

「自由」「平等」という宝が

手に入って 国民を生き返らせた

だが それは昭和の間だけだった

 

平成に入った途端に 日本は右傾化し

戦前への逆戻りが 速度を増しつつある

 

「日本は 天皇を中心とする神の国だ」

と森喜朗元首相は言った

「人間には 命を捨てても守らねばならないものがある」

と安倍首相は言った

この二人の言葉こそ

大日本帝国時代の為政者の

謳い文句そのものではないか

この二人は右傾化の根っこか 百済系か

いまに「神である天皇のために死ね」

と言い出さねばよいが

 

戦争体験世代が

声を揃えて 応えてくれた

「その通り

その通り

でも それを言うと

命を狙われるよ 親族も危ない

用心しなきゃ」

 

私の身に魔の手が伸びるのを恐れ

案じてくれる同世代の

視線に見守られながら 私は

必死の思いで書いている

もう 決して 決して

大日本帝国を 復活させてはならぬ

 

 

  右翼を手下にする藤原薩長

「天皇は朝鮮人だ」

と言ったために

小沢一郎氏は はめられた

私の末娘奈実は

「万世一系は嘘です」

と言ったばかりに右翼集団から恐喝され

仕事を奪われた

恐怖のため転居までした

「そうです そうです」

と言っていれば安全だが

「それは違います」

と言うと脅され 仕事まで奪われる

藤原薩長 つまり百済人に

天下を取られたための悲劇である

天皇制が自由を奪った

天皇制が言論弾圧を生んだ

 

暴力団の存在を法律で認めているのは

世界中で日本だけ(溝口敦『暴力団』)

とは 恐ろしい国だ

天皇制警固に 必要だからか

 

暴力団公認の日本は 濁りきっている

大事なのは 血筋ではない

学歴でも 肩書きでもない

聡明で 真っ直ぐな心 温かい心だ

日本の国は 隠蔽と欺瞞の歪んだ心 冷たい心に

支配されている

冷たい心が 国民を不幸にする

ウォルフレンが言った通りに

「いまだ人間を幸福にしない日本」

なのだ

 

 

  人権は宝

「子どもは男と女の二人あればいい

あとはいらん子だ」

五人兄弟の真ん中で 二女だった少女の私に向かって

母は そう言い放った

生涯を通して 私は 無給の下女 弟は下男のように

母に かしずかねばならなかった

根強い「男尊女卑」思想に重ね

「忠義孝行」をうたう国策が 子供の人権を奪った

嫁いだ私は 夫ともども下男下女扱いされた

子育てで時間に追われながら

仕立物や 編み物をさせられた

すべて無償

こき使われるだけで 母から

接待されたことは

我が子を含めて 一度も無かった

さらに母は

将来 自分が老いて寝付いたら

誰が看取ってくれるのか と

しつっこく問い詰めることで

私に 介護を誓わせた

七十二歳で母が寝付き

最期の七か月近くを 看取ったのは私だった

まだ六歳の子をもつ主婦業との両立は

苦難の極みであった

 

「児童は人として尊ばれる」

 

母から 労働力として扱われた私には

戦後生まれた「児童憲章」の

この言葉が なんと眩しかったことか

人権は宝である

 

 

  あなたたち

いつも電話をくれた

よく会って おしゃべりした

大の仲良しだった友が 次々と消えてしまった

同年の 澄ちゃんは 六十代で

よっちゃん 清子さんは 七十代で

たまさんと廣子さんは 八十代で 逝ってしまった

一歳上の スミ子さん だけではない

四歳下の 智寿子さん

二歳下の 延子さん までが

私を残して 逝ってしまった

 

思い出す 声

思い出す 姿

あなたたちに 会いたい

 

あなたたちがいてくれたから

私の人生 楽しかった

「卒寿」のいま あなた達は天国

寂しいけど あなたたちとの

思い出が 私を慰めてくれる

 

あなたたち

温かい心を ありがとう

楽しい思い出を ありがとう

 

 

  心の力

あれは 私が六十歳くらいの時だった

テレビ画面を通して

高塚光さんが教えてくれた

「スプーンは『曲がる』と思えば曲がるんです」

その通りだった

テレビ画面の 高塚光さんから

パワーをもらった私が

「曲がる」と思った途端に

スプーンが粘土のように

ふにゃふにゃになった

軽く 指先を触れただけ

押しただけで

ぐにゃり ぐにゃりと曲がった

心には力があった

しかもその力は人から人へ伝わった

心は偉大だ

 

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  金粉の出現

夫が六十一歳で他界し

その初盆から 私の身辺に霊現象が起こり始めた

仏壇の水が消失し

仏具が方向転換したのが事の始まりだった

続いて私と末娘の身辺や

顔や手に金粉が頻繁に出現し始めた

金粉は外出先でもしばしば出現し

立ち会った人々を 驚かせた

クラスメートと恩師の前でも

金粉は出現した

小学校一、二年時の担任

小川百合先生から

「お友達を誘って遊びに来てよ」

の電話を受けて 集まった

たまさん

廣子さん

冨貴代さん

私が

先生を囲んで

おしゃべりに夢中だったとき

「あっ 文子さんの頬に何か光った」

「また増えた」

と叫んだのは 冨貴代さん

みんなが一斉に立ち上がって

私を囲んだ

「文子さんには神が宿っている」

と 小川百合先生がおっしゃった

あれは 二十何年前だったか

 

金粉出現は 私や末娘に限らなかった

友人知人が 次々と体験し始めた

共通して 素直な人たちに思えた

この体験を拙著

『金粉のメッセージ』

『金粉が出た人たち』

『私の不思議な体験』

に記述したところ 大きな反響あり

作家の三浦清宏氏をはじめ 未知の読者の方々からお手紙で

金粉の出現は珍しくない普遍的な現象である と知らされた

幾つかの新興宗教は 金粉を霊界からのメッセージ

良い知らせと受け止めているそうな

 

さて私は と言えば金粉の出現によって

霊の存在を はっきりと認識させられ

守護霊に守られて今の私がある と思えて

無上の安心感に包まれた

生まれ変わったように

心軽やかな 明るく 楽しみいっぱいの

人生が始まった

 

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(二〇一八年 七月二十三日)

平和を願って

初出『ちば文学』第18

 

新聞への投書

 書類箱をひっくり返して整理していたら、新聞へ投稿した古い拙文の切り抜きが三つ出てきた。読み返してみると、その1は韓国に反日デモが起こったことに対する愚見。その2は中国の反日デモに対するもの。その3は日本における改憲集会に対しての感想である。どれもこれも平和を危うくしかねない出来事に思えるがために私はペンを走らせてしまったわけである。こんな日本であってはならないのに、なぜ日本はこういう状況に置かれてきたのか。近隣国との関係改善に必要なものは何かを改めて考えたくて、再掲を思い立った。

 

 その1 戦争に負けて日本変わった (二〇〇五年 三月二十九日 中日新聞「発言」)

 

 お隣の韓国から六十年以上も昔のことを「謝罪せよ」と言われても六十歳以下の日本人はキョトンとするだろう。高齢の男性の中には、「あの頃は弱肉強食の時代で、世界のあちこちに植民地があった」と反論する人がいるかも知れない。

 だが十五歳の時に終戦を迎えた私は、別の思いがある。戦争に負けるまでは、日本の男性、特に権力者の横暴は目に余った。女性や貧しい人、弱い者への思いやりに欠け、貧者や女性には選挙権が与えられなかった。また女性には財産権も相続権もなく、ほとんどの国立大学は男性しか入学できなかった。

 太平洋戦争でアメリカに負けたことで、朝鮮半島の人々だけでなく、日本の女性も男性の横暴や不平等な扱いから解放された。あの時代を生きた女だから私には隣国の痛みがよく分かる。また日本に男女同権と平和をもたらした点ではアメリカの占領政策を評価したい。「日本人は働き過ぎだ。体が壊れる。もっと休日を」の指示の温かさに私は胸を打たれた。「死ね、死ね」の日本政府の逆ではないか、と。

 

 その2 自戒をしつつ外交は毅然と (二〇〇五年 五月二日 中日新聞「発言」)

 

 先の大戦が起きる前(テレビニュースで見たもの)とそっくりの反日運動が、今ごろまた中国で起きたことにびっくりした。前回の反日運動は日本の侵略に反発して起きたが、今回の騒動はそれに対する歴史認識の違いが原因で、非常に憂慮される事態だ。

 かつての日本は、外国から向けられた憎しみに怒りを爆発させ戦争を拡大させてしまった。そのことをしっかりと思い起こし、愚を繰り返さないよう自戒しなければいけない。

「弱肉強食で、食うか食われるか」の世界であることは過去だけの話ではなくて、現在も国益を巡っての対立は激しい。食われないためには、「穏やかな愛の深い国」になって世界から信頼されることだ。「歯には歯を」とばかり軍備拡張に走るのは危険である。

 このためにも忍耐と愛と寛容を持って、しかも毅然(きぜん)たる態度で外交を行なうことが大切だ。「出る杭は打たれる」と言われるが、日本が国連安保理の常任理事国入りするのを快く思わない国もある。打たれても歪まずまっすぐに立つためには自らを律する強さが必要だと思う。

 

 その3 現憲法が平和を導いた (二〇一五年? 中日新聞「発言」に加筆)

 

 先日、改憲派の識者や国会議員らによる集会「今こそ憲法改正を!1万人大会」が東京の日本武道館で開かれた。彼らが主張する中国脅威論や、押し付け憲法論に対し、私は反論する。いかに難題であろうとも、中国と手を携える道をさぐるべきだ。それが平和につながる。

 米国からの押し付け憲法だなんて、とんでもない。日本国民を独裁軍国主義の明治憲法から解放し、自由と平等を与えてくれた現憲法は当時の日本国民にとってまさに救いの神だった。改憲大会に対して私は「戦争を知らない世代が何を言うか」と大声を張り上げて叱咤したい心境だ。体験に勝るものはない。八十六年生きてきた私の人生の中で、眩いくらいに輝いていたのは、敗戦から後の昭和時代だけだった。平成に入ると、年々右傾化が強まる一方で、確実にいつか来た道への逆戻りが続いている。そうした中での改憲論は、どうしても危なっかしさを覚えずにいられないのだ。それは大日本帝国復活に繫がって行く恐れがある。

 

不安を抱かせた政治家たち

 今の日本は明らかに右傾化し、大日本帝国復活の兆しが強まった。一体誰のせいでこうなってしまったのか? 目を凝らし歴代首相の言動を見つめ続けてきた中で、気になったものを挙げてみたい。

 ★岸信介氏(安倍首相の外祖父) 安保闘争のとき、デモ隊に向けて銃を構えた警官隊が「零時までに解散しないと撃つぞ」と威嚇したのが恐怖だった。デモ隊が解散し銃が下ろされてほっと安堵したテレビニュースは忘れられない。

 ★森喜朗氏 密室決定で浮上。第一声「日本は天皇を中心とする神の国だ」この言葉は私を仰天させた。人間宣言をしたはずの天皇をまた神に復活させたいのか。

 「天皇制」があの戦争に果たした役割、つまり天皇の威光をアジア全域に広めるのがあの戦争の目的であったことや「神である天皇のために死ね」と多くの国民を死に追いやった責任について考えたことがあるだろうか。

 ★小泉純一郎氏 首相の靖国参拝。こちらもあの戦争推進に靖国神社が一役買ったことへの痛恨の思いはないのだろうか。靖国尊重は軍国化へ繫がることに気づいて欲しかった。

 私は三歳上の兄が陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進んだ職業軍人だったため、そこで受けた教育や軍隊生活を見守り続けてきたことによって、はっきりと靖国神社(神道)と天皇制の二つが結びついたことによる威力、即ち恐ろしさを自覚させられた人間である。天皇制と靖国神社がなかったならば戦争は起こしようがなかった、と確信している。この二つの温存は大日本帝国復活の源泉になり得るであろう。またこの二つとも「国家神道」が産んだものであることに注目したい。国家神道は明治維新によって誕生した人為的な組織だ。その神道の教祖たるや驚くべし。明治維新の発起人たち、明治天皇(大室寅之祐)や安倍小泉両氏の父祖らと同じ田布施村出身の無名の老女が神道の教祖だった。THINKER『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』136頁によれば田布施村は朝鮮人集落であったという。

 ★安倍晋三氏 以前首相の座を降りるに際してのセリフは「民主主義はよくない」だった。民主主義のよさを知らない人が首相を務める国など私は好まない。三回目首相になる際の選挙演説では「人間には命を捨てても守らねばならないものがある」と。これは「お国のために死ね」を連想させて不安だ。

 掲げた人々の大方は、明治維新(真相は天皇暗殺すり替えのテロ)の立役者を父祖に持つらしい点もかなり大きな不安材料である。明治維新が好戦国日本を誕生させたのだから。

 

天皇制の是非を考える

 ポツダム宣言を受諾するに際して日本は無条件降伏したことになっているが、実際は一つの条件を出していた。「国体護持」即ち天皇制を存続させて欲しい、という条件だ。極東裁判のとき政府は天皇を戦犯から除外させるための工作に終始した。こうしたことが現在の右傾化に繋がってしまったと考えられる。民主化妨害に成功したわけだ。

 天皇制批判に対する右翼からの嫌がらせが言論弾圧に繋がる日本。その右翼の八割以上は日本人ではないと言われているけれど、天皇ご自身が「自分は百済王族の子孫である」とおっしゃったことから察すると、右翼は百済系の人たちなのだろうか。天皇制は百済人が日本を支配する手段になっている、というわけか。推理すればそうなる。現実に図書館で拙著を読んだ、という人から出版社経由で頂いた情報の中に「日本は主要大学の教授陣から始まって、テレビ出演のタレントに至るまで朝鮮系が優先されていますよ」と訴えてきたものがあった。六十代の時、宮中歌会始に入選した私は、これがため朝鮮系の人から同族に見られたことがある。朝鮮系が恩恵を受ける日本である証拠かと思う。これらの体験が、私に天皇制の是非を考えるきっかけとなった。歌会始で参上した宮中での見聞は大きく私の視野を広めてくれた。宮中は徹底した秘密主義であり、全く自由がない。天皇制によって得をするのは一体どういう人たちなのか。

 私が体験から感じ取った限りでは、日本の国は宮内庁に引きずり回されている気がする。宮内庁だけは国家公務員試験とは別に、多くが世襲制採用であると聞くが、それは大きな問題だ。宮内庁と他省庁との間では互いに出向者を差し向けたり受け入れたりしている。となると宮内庁の思惑が広められるのは言うまでもなかろう。

 更に加えて、Ⅰ種国家公務員採用方式には腑に落ちない点が多々あり過ぎる。けったいなことにⅠ種だけはⅡ種以下の他の公務員試験のように合格者イコール採用者ではない。採用人員よりも大幅に水増し合格者を出すことによって、コネ優先採用を実現させている。つまりコネ優先実現のための水増し合格なのだ。ここで奇妙なことに最優秀合格者が採用を敬遠される傾向があるらしい。というのは以前この問題を拙著の中で論議したところ、愚見に共鳴し、採用方式を怪しむ体験者の声が寄せられた。複数のしかも最優秀の人ばかりの声であった。

 天皇制は何のために、誰のためにあるのか。真の民主国家ならば、天皇制の是非を全国民に問うべきであろう。なんといっても天皇制を守るためにのさばる右翼が怖い。右翼と繋がっているから天皇制は怖い。右翼の活動が言論弾圧の因になって日本の民主主義が壊れようとしていることが重大問題だ。

 

日本は反省を

 核実験で騒がせている北朝鮮を責める前に、日本人として考えたい。あれは過去に日本に植民地支配されたことも影響しているのではないか。種を撒いた責任が日本にありはしないか。植民地支配を日本側が詫びることが和解への一歩になると考えるのは甘すぎるだろうか。アジア平和を乱した日本の過去をお手本にしているような北朝鮮の姿に胸が痛む。過去の過ちを認める日本でありたい。自らの反省なくして、他を責める資格はない。

 八十八年生きてきた私の生涯で、一番良かったのは戦争に負けた後の昭和時代だった。「自由」「平等」そして「平和」という宝物が初めて国民の手に入った、あの幸運は実に大きい。警察が「オイ、コラ!」と言わなくなったのもこの時からだった。何と言っても辛かったのは大日本帝国時代だ。食べる物なくてお腹ペコペコ、天皇に忠義、親に孝行を強いられ、子供ながらに月月火水木金金と週七日間休みなく働いて働いて働き通しの辛い日々だった。親に連れられての遊びなどとんでもないことで、誕生日を祝ってもらったことも、お年玉をもらったことも一度もなかった。戦争が終わり、二十一歳で初めて友達と映画を観に行った時は、胸わくわくなんと楽しかったことよ。

 戦況が不利になって、連日昼も夜も空襲警報が鳴り響き、名古屋の街が焼け野原になった時は「今日死ぬか、明日死ぬか」の思いで工場で必死に働いた。あんな時はもう決して来ないで欲しい。絶対戦争を起こさない日本であって欲しい。

 平和を守り通せる俊敏政治家の出現を切望してやまない。

(二〇一七年 十一月十五日)

天皇制の黒幕に追われて

初出『ちば文学』第17

 

 二〇一五年十一月、名古屋市に隣接する春日井市において「戦争に関するシンポジウム」が開かれ、私の末娘山本奈実がこれに参加した。受講希望者は住所、氏名、生年月日、電話番号から職種まで記入した申込用紙に受講料を添えて申し込む。その用紙を、ちらと覗き見た私は受講に住所氏名が必要なだけでも妙なのに、加えて誕生日から身分までとは、なぜこれほど詳しく書かせるのだろう?という疑問が頭をよぎった。

 講習は丸一日をかけて①数人の講師による講演、②壇上における講師同士による討論、③受講者中の希望者四十人と講師を交えての交流会、の三段階で行なわれた。末娘の説明によると、このシンポジウムの主催団体は歴史が古くて何十年も続いてきた。その代表者が近年になって急死。代わって代表者になった責任者が招いたという講師は、右翼っぽく感じられたそうな。

 壇上討論会の席で、たまたま講師の一人が「天皇家の万世一系は怪しい」と発言したことにからみつき、「万世一系は真実だ」と反論したのが問題の講師だった。今の時代に万世一系を正当とする人が存在することに驚き、末娘は強い反発を覚えた。そのため自分が参加できた交流会席上で「万世一系は嘘だ」と強調する発言を繰り返した。結果、自民党員を名乗る男を中心に暴力団風の男(係員として立っていた)数人に取り囲まれ、恐ろしい形相で「別室へ来い」と迫られた。「嫌です。日本は民主主義国だからあなた方に従う必要はありません!」と強く言い放って、末娘は拒否した。何十人もの参加者の面前でそんなことが行なわれたとはびっくりだ。別室へ連れ込んで一体どうしようというのか。

 たとえ末娘の言動に非があったとしても、「別室へ来い」ではなくて、その場でその席のまま末娘に対して非を諭し、言葉で文句を言えばよいではないかと私は思う。また、末娘にも十分反論させてもらいたかった。参加者たちの面前で堂々と渡り合ってこそ民主主義国家だと言えるのに、末娘は脅しによって口を封じられてしまった。これでは「天皇制は弾圧によって継続されている」ということになる。それにしても住所、氏名、電話番号まで知られてしまっているのが恐ろしい。結局、私と末娘はこのことがあったために安全を求めて転居に踏み切らざるを得なくなった。天皇制の黒幕が怖くて心がすくんだ。こんな日本であってはいけないと、心の底から思った。こんな恐ろしい国だと知ったからには、今後は慎重に身を処していかねばならないが、巻かれたくはない。

 転居先は名古屋市の端っこに位置する防犯システムの徹底したマンションである。新聞、郵便は建物の一階玄関どまりでそこの集合郵便受けに入れられ、居住者は毎朝夕、一階まで取りに降りる。用事で来訪した人は建物の玄関で該当居住者の許可を得て、初めてエレベーターに乗ることが出来る。でないと、エレベーターや階段へは決して近づくことができない形になっている。

 

読者が味方

 恐怖のあまりの転居を決行して落ち着いたところで、段ボール一杯たまっている手紙の整理に取り掛かった。この二、三年の間に私は著書『墓標は語る』『大日本帝国復活』を刊行し、手の届く限りの広範囲へ配布した。その反響として頂いた結果がこの段ボールの中の手紙であった。朝日新聞「声」欄に掲載された拙文や拙著『墓標は語る』の内容、「日本は朝鮮半島から来た百済系帰化人の子孫に天下を取られてしまっている」という私見に対する率直な感想が主である。

「山本さんの意見にまったく同感だけれど、私は恐ろしくて口に出せない。あなたは勇気がある」

「右翼(天皇制の黒幕)の八十パーセント以上は日本人ではない、と言われている。彼らは話して分かる相手ではないから、私は怖い」

 この二つの意見が、みなさん共通の柱のように感じられた。どの人もよく分かっているのだ。分かっているけれど怯えて「長いものには巻かれろ」の姿勢を貫いている。なんと歯がゆいことよ。これだから日本人の表情が暗くて自殺率が高いはずだ、と納得できる。こうした手紙の差出人に迷惑が及ぶことのないように留意したい。拙著内容に対する共感の手紙のほとんどが七十代後半以上である。しかもその多くが有識者であり、賢明な人たちだ。野党の国会議員を筆頭に、教育者や作家など文筆業が多くて啓蒙される有難い人たちである。沖縄からは日本政府に愛想を尽かして独立を望む声が伝わってきた。

『改訂版 墓標は語る』が驚くほどの好反応だったから、もっともっと贈りたいと思った。だが、刊行から一年半後の三月十一日現在、手元に余分が一冊もなくなっているので、Amazonから中古品を入手しようと考えたところ、なんと、定価五百円のが五千円から五万円という高値がついていて、我が目を疑ってしまった。これこそ、賛同下さる人たちの目一杯の支持、協力、奔走の賜物に違いない。胸が熱くなった。

「文子さーん! びーっくり! 信じられない! アマゾン見ました。五万円出しても読みたい人がいる、ということです。古書、芸術の本ではあることですが、本書(『改訂版 墓標は語る』)は内容です。今多くの人が関心を持っているのですね」

「部落民は新羅人か、という文子さんのご考察、これは凄いことです。これで成程、と分かることが出てきます」

 教えられること多く、尊敬してやまない文友からのこの言葉のなんと勿体なく、嬉しかったことよ。

 

 頂いた資料の中に澤地久枝対話集『語りつぐべきこと』(岩波書店)収録の「女たちが地球をまもる」(澤地久枝・住井すゑ対談)をコピーして送って下さったのがある。住井すゑの言葉には考えさせられる箇所が多い。

 住井すゑは農家に生まれ、農民の労働の厳しさとそれに見合わない貧しさを見つめ続けて天皇制の非を悟った。平等であるべきはずの人間に貴賤をつくる天皇制を激しく怒った。私も百姓の娘だったからよーく分かる。大日本帝国は小学生にまで働け、働けと強制した。少女の私は敗戦の日まで元旦以外の年三百六十四日休むことなく働き、農繁期は一日十八時間働いた。休み時間がないことと、体力の限界を越えて働かねばならないのが苦痛だった。濃尾平野の真ん中に位置する豊かな農地を耕していた我が家は小作ではなく、他家への貸し付け農地を多少持ち、小地主を兼ねた自作農家で、近隣では所有農地が多い方だった。にも拘わらず、働いても働いても豊かさを実感できなかったのは何故か。その答えが敗戦を迎えてやっと分かった。天皇制という制度によって、百済系朝鮮人に搾取されていたためだ。

 敗戦によって生活が一転した。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「日本人は働き過ぎだ。身体を休めなさい」との指令が出された。それを受けて私が住む春日井市の農民の場合は月に二回、一日と十五日は田畑に出ることが禁止になった。その日は指定場所に立てられた赤旗が目印になって、一日中休息を取る習慣が始まった。この日に田畑に出る人があると、町内の全員が手伝いに走っていく規則になったので、厳守された。農民は身体が楽になった上に、収入にゆとりができた。私は好きな映画を友と二人でわくわくしながら観に行った。負けたからこそ、私の生活は楽しい時間を持てる人間らしいものになったのである。

 一方で、それまで世界国王中一番の金持ちだった天皇家は、GHQによってだぶつく贅肉をごっそりと削り取られた。私たち百姓は天皇家を肥やすために働かされてきたのだということが実感できた。真相を見抜いたGHQの眼力と、日本国民に対する温情があったからこそ、負けて日本の国の労働者と女子供は救われたと言えよう。

 

老人に酷な冠婚葬祭

 住井すゑは冠婚葬祭の形式が大嫌いで、天皇制がなければこんな馬鹿な形式はなかった、と言うが、私も同感だ。天皇が先祖を慰霊する祭事を行なうのを始め、諸行事が派手に行なわれる天皇家を真似て、民間に冠婚葬祭の習慣がつくられてしまった。虚栄心が商魂に煽られて膨らんでいった結果が、現在の冠婚葬祭の慣習である。無駄な上に、貧者に対してなんと無慈悲な慣習であることよ。私はまだ大学生の子を持つ五十代の時に夫に先立たれた。四児を育て上げた挙句の未亡人生活の中で、一年の間に極めて近い親戚二つの葬儀があって、生活費が足りなくなった年がある。夫婦揃って健在の親族たちには未亡人の私の貧しさが理解できなかったらしい。友人の中には、未亡人になったら香典の額を半額にする習慣の一族があって、私は羨ましかった。冠婚葬祭は富める者の虚栄心の捌け口になっているようだ。

 八十代後半のいまはこの一、二年の間に二つの葬儀に欠席という不義理を重ねてしまった。義姉(兄の妻)の実家と義妹(弟の妻)の実家の二つで、どちらも直接の交流は一切ない。そのため住所録に名前を載せていない。だから私には先方の家の所在地も分からない。訃報は離れ住む弟を通して伝わってきたものの、耳は遠く、足腰弱り、記憶力衰退の上、トイレから遠い場所へは出かけられない私にとって、この葬儀への出席は不可能だ。せめて弔電だけでも打ちたいと思っても、喪主の名前すら分からない。難聴だから電話で問い合わせることもできない。完全にお手上げである。二つも不義理を重ねてしまった心苦しさ。冠婚葬祭とは無縁にしてもらわないと、八十代、九十代の老人は生きていけない。「自分が死んだ時は密葬にしてくれ」と私は遺言している。

 

天皇の血筋

 第二の田中角栄かと期待された小沢一郎氏が「天皇は朝鮮人だ」と公言したばかりに、嵌められた。嵌めた側は言うまでもなく天皇と同じ血筋の人間であろう。今の日本が完全に百済人に支配されているからであり、天皇制こそ百済人が日本を支配する手段になっているというわけか。

 百済人と言えば、反射的に北朝鮮が浮かぶ。現在の北朝鮮のあり方はかつての大日本帝国そのままだからである。金正恩は大日本帝国が大好きか。彼の言動からそう感じるし、北朝鮮の軍服はかつての大日本帝国軍人のものに酷似し、整然たる軍隊の行進はまさに大日本帝国軍隊の行進そのものだ。

 天皇制反対論者の住井すゑは言った。

「私は子供の時から部落の成立に疑問を持っていた。徳川幕府が作ったのなら、日本全国に平均して部落があるはずなのに、なぜ畿内に多いのか。つまり古代の天皇の権力が及んだ範囲に部落が多い。大きな枠で考えるとそうなる。小さい枠で考えると、班田収授の時に部落は土地の配分を受けていない。その時に既に差別が確立しているわけだ。だから私としては天皇との関係において部落が作られたと思う以外判断のしようがない」

 なんと鋭く細やかな思考であることよ。私の推理を加えると、その通りであり、部落差別をつくったのは、天智天皇と藤原鎌足であったと考えられる。部落民は新羅系朝鮮人の可能性がある。

 明治天皇は古代天皇とも孝明天皇とも血の繋がりなく、明治天皇をはじめ、明治維新の立役者は揃って百済系朝鮮人であった。その百済系朝鮮人にとって新羅は祖国を滅ぼした仇、即ち永遠の敵だから、部落民として貶めたのであろう。

 祖国(百済)を滅ぼされて別の国(日本)を策略で乗っ取った百済王族たちの、性格のどぎつさがここに顕われている。百済系の天皇を頭に頂くことが百済系支配の因になり危険を呼ぶ。但し、危険なのは天皇ご自身ではない。天皇を殺してすり替えることをも辞さない黒幕(藤原と薩長)そのものが危険な存在なのである。今がいま日本はその薩長の血を引く政治家たちによって動かされている。そのために言論弾圧が強まり、大日本帝国復活の兆しがありありと見えてきた。

 平和を切望する高齢者たちの間から

「『天皇のために死ね、死ね』と言って多くの国民を殺した責任を取って、天皇制は廃止すべきだ」

 という声が日毎に高まってきた。

 体験によって天皇制こそ危険因子だと悟ったための嘆きだ。だが、それを口に出すと命を狙われかねない恐ろしい日本になった。まさに日本は戦前に戻ったのである。

 

 大日本帝国のことも、百済王族による弊害も一切知らない戦後生まれの息子から、次の二つの質問を受けたから答えたい。

① 天皇の血筋が百済系朝鮮人だからいけない、というのは血筋差別ではないか。

(答)血筋差別をつくったのは、百済系側であることを認識せよ。まずは百済系帰化人の悪業ぶりを知らなければ話にならない。彼らの行動に注目せよ。明治維新を起こした薩長は百済系朝鮮人だった。百済系朝鮮人であることを隠し、大和民族のふりをした。自分たちが立てた同じ百済系朝鮮人の天皇を神の子孫だと偽った。嘘まみれのたちの悪さ。歴史や素性をごまかす為政者は信用できない。そしてつくり上げた大日本帝国そのものが百済系朝鮮人優先の血筋差別構造になってしまい、それが現代まで続いている。『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている 』(THINKER)によると、通産省内で出世コースに乗れるのは朝鮮人集落に本籍のある人に限られるという。勲一等は皇族が主体で、三等までは朝鮮人がほとんどだとの記述を読んだ記憶がある。また、図書館で拙著を読んだ、という人から出版社経由で頂いた手紙には「芸能界も北朝鮮系や韓国系が優先されていますよ」の言葉があった。天皇が百済系朝鮮人であるための弊害ばかりではないか。

 私はそうした彼らのやり方そのものを咎めているのであって、百済系朝鮮人だからいけないと言っているわけではない。日本では「朝鮮人」と言っただけで「差別をした」と怒られる。朝鮮人を朝鮮人と言うのは当然ではないか。「和人」「アイヌ人」「琉球人」という言葉が差別語でないのと同じに「朝鮮人」も差別語ではないはずだ。

② どうせ日本人は混血であって、我々にも百済の血が混じっている。だからこだわる必要はあるまい。

(答)割合が問題である。明治維新以降の、天下を取ってきた百済系朝鮮人たちは世襲制のため濃い血筋であろう。対して一般国民は一パーセント以下だと思う。ほんの二、三パーセントだろうものを、「私は天皇の子孫だ」と誇る神道系の家を複数知っているが、それこそ血筋差別ではないか。血筋差別をつくってしまったのは百済系側である。

 日本国民全体の血筋の割合を見渡すことも必要だ。百済系朝鮮人は決して多数ではない。土着民族(琉球人、アイヌ人、大和民族)の方が圧倒的に多い、この割合で力を振るい合うのが理想ではないか。百済系朝鮮人は少数のくせに出しゃばり過ぎる。大和民族の仮面を被り、神の子孫を自称する性質の悪さで土着民族を不幸にしてきたのだ。加害者が被害者のふりをしてのさばっていることの恐ろしさ。思考を深めて、百済系朝鮮人と土着民族との性格の違いにも注目したい。私たち世代では「朝鮮人はきつい。日本人はおとなしい」というのが定説になっている。朝鮮人のうち、新羅系朝鮮人は素朴、率直で日本土着民と似ているが、百済系朝鮮人はその全部とは決して思わないが、少なくとも支配者になった人物は嘘つきの上に冷酷で、大日本帝国政府がまさにズバリそのものだった。現在の北朝鮮の支配者はその言動から察するに百済系であり、韓国の指導者は新羅系が多いように感じられる。

 かつての大日本帝国がそうであったように、今の北朝鮮も世界平和を脅かしている。どちらの支配者も百済系の血筋であるからには、その血筋の性格、個性に注目する必要があろう。

(二〇一七年 六月十日)

検証すべき問題「移民」「軍規」そして「明治維新」

初出『ちば文学』第14

 

 古書店めぐりをしていて貴重な二冊を見つけた。

若槻泰雄『外務省が消した日本人・南米移民の半世紀』(毎日新聞社)

 命を賭して告発する著者に感服。

飯田進『地獄の日本兵・ニューギニア戦線の真相』(新潮社)

 これもまた隠されていた戦争の恐るべき真相を暴いた書。どちらの書も人間の命を虫ケラのように扱ってきた日本政府の冷酷ぶりが浮き彫りにされている。言わば、故意に殺したがっているかに見えてしまうのが驚きである。

 日本政府は大農場主になれる夢を持たせて約六万七千人の日本人を移民として南米中心に送り出した。ところが移民先は、文明社会から隔離された厳しい気候の辺境の地だった。ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ、ボリビア。未開発の貧困地で住民の姿もない密林だったり、百何十キロの彼方にしか医者がいないし、教育の場がなくて子供は退化する。荒地を耕して収穫した作物は買ってくれる人がいない。補助金も不充分。所得指数は日本の半分以下という惨めさだった。こうして密林に一万六千人の日本人が棄てられたのである。官僚たちの無能、腐敗、冷酷の結果だと筆者は怒っている。同様に『地獄の日本兵』でもまた大本営の無能ぶりが強調されているのは見逃せないことである。核心と思う部分を文語体に変えて転載する。

「太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士である。この無念がどれほどのものであったか、想像できるだろうか。(中略)なぜあれだけおびただしい兵士たちが戦場に上陸するやいなや補給を絶たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそ検証されなければならない。兵士たちはアメリカをはじめとする連合軍に対してでなく、無謀で拙劣極まりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ恨みに怨んで死んでいったのである。」

 ここで私は考える。移民といい、戦術といい、本当に無能が招いた悲劇だったか? 私は大いに疑う。無能ではなく、意図的な殺人ではなかったか。日本国民を殺したい百済人の野心が引き起こした惨劇だったのではないか?

 という事で、次には話を明治維新へ向けたい。明治維新によって躍り出た百済系朝鮮民族の帰化人たち。彼らは天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯しながら、咎められるどころか功労者然として日本の支配者に成りすました。天皇を殺した輩が「天皇は神だ」と称することの滑稽さ。天皇が神なら彼らは神殺しの重罪人ではないか。天皇を殺してすり替えたり、天皇を神だと偽って国民をかしずかせ、思いのままに天皇を操り国を動かしてきたとんでもない策略組織。それが頂点にいることの怖さ、恐ろしさに私は怯えずにおれない。こんな文を書いて大丈夫だろうか。怖いけれど、怖いからこそ警告のために書かずにおれないのである。

「万世一系、天孫降臨、天皇は神」などと嘘八百で日本国民を騙し、戦争へ追いやった責任は実に明治維新を起こして大日本帝国をつくった集団にこそある、と言いたい。明治から昭和敗戦まで続いた戦争の原因は、明治維新がつくったのだ。

 戦犯は枝葉を切り落としたに過ぎない。根っこ(天皇制)が温存された日本であるため、再び戦争する国へと歩み始めてしまった。平和を守るには九条の死守だけでは充分ではない。それ以前に明治維新の真相を暴き出し、支配者に居座ってしまった悪党どもにライトを当てることがどうしても必要である。でなければ悪の芽は絶やせない。彼らは策略家だ。策略家に支配される恐ろしさに気付かねばならない。

(二〇一四年 十一月二十九日)

大日本帝国の罪業

初出『ちば文学』第13

 

(一)右傾軍団の正体

 植民地支配時代を恨み続ける韓国や、南京の残虐を忘れない中国の姿が私には他人事には思えない。なぜならば、私自身が大日本帝国の国民だった十数年の間の体験があまりにも辛苦に満ちたものだったからである。一九二九年、農家に生まれた私の少女時代は年間を通して休みなく、働け、働けの生活を強いられ、自由時間の殆どない奴隷のような暮らしだった。そこから解放して私に自由時間を与えてくれたのは、他ならぬアメリカの占領政策によるものだった。私にとって負けたことによる解放感は大きかった。

 敗戦になったとき、天皇家の財産は三井や三菱財閥とは桁違いの多額であった(吉田祐一『天皇財閥』)。世界王国の国王の中でもトップだったという記事を読んだことで、初めて私は農民の労働の厳しかった理由が分かった。大日本帝国が国民を牛馬の如く酷使して絞り上げたのは雲の上族を太らせるためだったのか。それが天皇制の正体だったのか。だが、財を積まれても天皇ご自身は人間として決して幸せではなかっただろうと思う。天皇という立場への同情とともに、天皇制という制度に対して私は懐疑的になった。加えて、うっかり天皇制批判を口にしようものなら、実にこっ酷い仕打ちを受ける皇室タブーの恐ろしさを身近に目撃体験。これがあったため私の天皇制反対の思いは決定的なものになった。機会ある毎に「皇室タブー」に関する目撃体験を人々に伝えて天皇制の恐ろしさを世に広めたい。というと今度は私まで命を狙われかねない。いまの日本はそういう異常な状況にある。

 このような恐ろしい日本をつくっているのは誰か。それは慰安婦問題や南京虐殺を否定したがり、大日本帝国の罪業を正当化する右傾軍団である。即ち中国、韓国との関係を悪化させ、日本を戦争する国へ戻そうとする人たちだ。

 

(二)慰安婦問題と南京虐殺について

 慰安婦が他国にもあったから同罪だ、などと考えてはいけない。日本の罪は、慰安婦の扱いが残酷だったことにあるのだから。人間としてでなく、道具として扱ったから問題視されるのだ。現に最近の国会で起こった女性議員に対する野次行為、あれは女性蔑視の表われであろう。

 敗戦以前の日本では「女は男と並んで歩いてはいけない。三歩下がって後ろを歩け」と言われた。小学校の学籍簿を始め、ありとあらゆることが男子優先にされた。それでいて唯一つ、葬式だけは女子が先頭を歩かされたのである。随分酷い話だと思う。参政権も財産相続権も女子にはなかった。ために男児を生めば手柄扱いで祝福されたものである。敗戦になって町にアメリカ兵の姿が溢れたとき、少女の私は彼らが女性に優しく温かく接し、日本女性と腕を組んで歩く姿には驚きの目を見張った。日本の男子となんと大きな違いだろう。それまでの日本は「女は引っ込んでいろ」とばかり、遊びにしろ外食にしろ男だけが楽しむのが当たり前だった。アメリカが持ち込んでくれた男女平等思想は、私たち日本の女を生き返らせたのである。

 女性の扱いに限ったことではなかった。大日本帝国は人間の命をメチャクチャ粗末に扱う国だった。軍隊生活にそれが見られた(私の兄は軍人)。上官から殴られ、足蹴りにされ、失神すれば水をぶっ掛けられる、といった扱いを受けた兵士たちが敵国の非戦闘員に対して残虐になっても不思議ではない。当時の世相からいって、南京虐殺が無かったとはとうてい考えられないのである。罪は、兵士をそのように教育した国家にこそあるのだ、と私は言いたい。

 

(三)安心できる首相、心配でならない首相

 首相というのは当然ながら国民の身の安全に気を配り、守ってくれるべき立場の人である。例えば羽田孜元首相や村山富市元首相にはえも言われぬ安らぎが感じられる。菅直人元首相には国民への愛を感じた。ところがそうでない人もある。

 安倍首相の前任期中には長崎市長狙撃事件があったし、小泉元首相の任期中には靖国問題についての発言が原因で当時議員だった加藤紘一氏の実家(選挙事務所)が放火された。二つとも事件発生時の首相コメントについて怪しむ声が上がり、週刊誌にキャッチされた。その記事を読んだ私はどちらの事件も首相が右翼を使って事件を起こさせたのではないか、という内容が納得できたがために、両首相への恐怖感が湧き出て必然的に両氏の言動に注目するようになった。

 私自身、実はこれまで生きてきた中で一度だけ非常に「貴重な体験」をした。その体験によって容疑者のシロクロを識別する能力が身についたように自分では思う。参考までに記述しよう。

 簡潔に言えば、私はあるとき信頼して貴重品を預けた先で、預けている間に財布から札一枚と硬貨数個の現金を抜き取られたのである。その日に限って朝出がけに小学生の我が子に給食費を渡したため、財布の中の残高を珍しく記憶していた。どこへも寄らず真っ直ぐ行った先で財布をバッグごと預けて一日中奉仕作業に勤しんだ。終わって真っ直ぐ自宅に帰ってきた。そこで現金の減ったことに気付いた私は預けた先の年長責任者にだけこの事実を伝えた。この時点では部外者へ私から漏らしたりはしなかった。

 ところが、財布を預かってくれた当事者の反応は予想できない驚くべきものだった。私が相手の立場だったなら決してああは言わない。思わない。私だったら

「えっ、お預かりした財布のお金が減っていた? それは大変だ。あそこ(置かれた場所)は人の出入りもない安全な場所なのに。一体いつ、誰が? どうしたことだろう?」

 とばかり心配になってあれこれ詮索してみるだろう。犯人捜しを試みた末に、最終的には、これは預かった自分の責任だから、とにかく犯人に代わって自分が弁償すべきかな、、、という考えに行き着くかも知れない。どう考えてもそれ以外にはありえない。

 ところが、現実の相手はそうではなかった。

「山本さんがお金を取られたというのは嘘だ。嘘を言って私をいじめる」

 と部外者たちへ言い触らされたのである。それを耳にした人が、私のところへ飛んできて話してくれた。

「あなたは決してそんな嘘を言う人ではないし、いじめをする人でもないことをよく知っているから、私には真相が分かった」と。

 それを聞かされたことで、初めて私の口から部外者へも被害事実を話さざるを得なくなった。この体験によって、私は信じられる人間であり続けることの大切さを痛感した。信じてくれる人の存在を心底有難いと思った。

 この体験から会得したもろもろを言えば、容疑者は自ら語る言葉によって真相を暴露してしまう。つまり「語るに落ちる」のことわざ通りだった。また「目は口ほどにものを言う」のことわざも正しい。容疑者の目を見て、その言葉に耳を傾けるだけで、物的証拠などなくても、シロかクロかの判断はできる。さらに嘘と盗みはまさに一体のものであると悟った。

 歴史の中の藤原氏がやっぱり嘘ごまかしと盗みを両立させる王者だった。大日本帝国がそういう国だった。いまの日本もそれに近付きつつある。そうさせている軍団のトップは安倍首相だろうか。

 以上で、この項を終わるつもりになってここで一旦筆を置いた私は、なにげなく新聞切抜き帳を開いた。そしたら目に留まったのが「年間自殺者数の推移」(警察庁統計)で、一九八九年から二〇一二年までの自殺者数グラフである。

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(中日新聞 2012710日朝刊)

 

 九十年前半は二万二千人を前後していたのが九八年には急激に三万三千人に伸びて、以降は三万二千人前後が続いている。ある時期から急激に増加したというのは妙だ。そこでこの変動期の首相は誰であったか調べてみる気になった。

 驚愕。私が安らぎを感じると書いた羽田孜(一九九四年四月~六月)、村山富市(一九九四年六月~一九九六年一月)の首相時代は自殺者数が少なかった。ところがおっかないと書いた小泉純一郎(二〇〇一年四月~二〇〇六年九月)、安倍晋三(二〇〇六年九月~二〇〇七年九月)首相時代は自殺者が多い。その前の森喜朗(二〇〇〇年四月~二〇〇一年四月)首相時代も高い。次期首相は加藤紘一氏かな、と予想していたときに、密室で決められ、忽然と浮上してきた森首相。登場するなり「日本は天皇を中心とする神の国だ」と言い放って、私を唖然とさせた森氏だった。加藤紘一の乱の原因が密室決定だと私は推理していた。

 いったい、この自殺者の急増の原因はどこにあったのだろう。庶民を追い詰める何かがあったのか。それは何だったのか、知りたいものである。

 

(四)宗教と神社について思ったこと

 ニューギニアで戦死した義兄(私の夫の兄)の祥月命日に私は長女を生んだ。その長女が成人して嫁いだ先が神社を守る神主兼公務員職の家だった。そのことが私の目を神社に向けさせ、神道についての知識を得ることに繋がった。おかげで神社イコール神道イコール天皇制支持母体イコールその核が朝鮮系であるといったことが分かってきた。それだけではない。私が気付いたのは、神道だけはキリスト教や仏教とまったく異なっているという点についてである。

 私の生まれ育った家は夫の山本家と宗派も同じ仏教徒だった。だが、あの意味不明の経を長々と拝聴することの嫌いだった私の心は仏教を離れて「聖しこの夜」、「ジングルベル」の曲に魅せられキリスト教に引き寄せられていった。娘時代は聖書を愛読し、コリント前十三章や詩篇一篇、二十三篇が大好きになった。コリント前十三章から好きな聖句のみを抜粋する。

「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、己の利を求めず、人の惡を念はず、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。

愛は長久までも絶ゆることなし。げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。」

 次は詩篇一篇、二十三篇から抜粋。

「悪しきものの謀略にあゆまず、つみびとの途にたたず、嘲るものの座にすわらぬ者はさいわいなり。」

「エホバはわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。エホバは我をみどりの野にふさせ、いこいの水濱にともなひたまふ。エホバはわが霊魂をいかし、御名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ。たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ。なんぢ我と共に在せばなり。」

 無教会キリスト教の矢内原忠雄先生が発行される『嘉信』の購読を続けた時期もある。長期に亘る聖書愛読の結果、私の心には正義を愛し、虚偽を憎む心が培われてきたのだろうか。しかし、父母にしても夫にしても友人知人にしても、みんな嘘のない人ばかりだった。だから私はそれが人間の当たり前だと思い込んでいた。それだけに、大日本帝国が嘘まみれの国だと知ったときのショックは大きかった。嘘の根源が天皇制にあることは容易に見抜けた。

 その天皇制の母体となっている「神道」を分析してみる必要を感じた。神道は明治に誕生した組織である。日本古来の神とは無関係なのに無理矢理繋げてしまったのは、明治政府による策略だった。神道にはキリスト教や仏教のような、教祖に当たる人がいない。経典がない。精神向上のための説教に値するものがない。そのせいだろうか。神主の資格を得るのが実に簡単だ。神主一族の家へ嫁いだ長女には三人の子がある。その子たちが大学生の時に三人とも神主の資格を取ったと聞いて驚いた。よく聞いてみると、夏休みの間に一カ月ほどの研修を受けるだけで取得できたそうだ。その手軽さにいささか呆れた私は僧職や神父、牧師はどうなのか知りたくなった。たまたまスーパーのレジに並んでいる人の中に黒衣の尼僧を見かけたので思い切って声をかけてみた。清純そのものの乙女らしい艶やかな頬を緩ませて話してくれたところによると、僧の資格を得るには最低二、三年はかかるとのことである。カトリック教の神父になるには数年以上かかるそうだ。長い年月をかけた僧職や神父に較べて、手軽になれる神社の神主には報酬の違いがあるかどうか。

 仏教徒だった我が家の経験を言えば月一回の月命日に檀那寺の僧侶が月経を上げに通ってくださったが、何十分かの長い読経に対する報酬は、神社で受ける簡単な御祈祷料と大差はなかったと記憶している。

 こうした神社のあり方は、パチンコ業界に通ずるものを感じる。昔からパチンコ店の経営者には朝鮮系が多いと言われている。労せずして多額の収益を上げる代表のように言われてきたパチンコ業界だった。その儲けは密かに北朝鮮へ送金されているとの噂が流れているけれど、真実だろうか。

 自らは労せず、他人が苦労して築き上げたものを卑劣な手段によって横取りすることばかり考える一族(百済人)に日本は支配されてしまっている。なんとも腹立たしい限りではないか。

 

(五)日本はこれからどうなるか

 明治維新は長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)の朝鮮人集落の住民が藤原氏と手を結んで起こした犯罪であり、一口にいえば朝鮮の百済系帰化人が中心となっての天下取りだった。真相はひた隠しにされ、嘘っぱちの歴史ばかりを私たちは教えられてきたが、近年になり、鹿島曻やTHINKERなど正義漢の手によって真相が暴かれた。

『増補版・裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』鹿島曻。

『幕末維新の暗号』加藤将一。

『藤原氏の正体』関裕二。

『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』THINKER。その他多種。

 いまの日本の政界の中心となっているのが、天皇ともども明治維新に関わった氏族の子孫であることに私は不安を覚える。犯罪者の子孫が功労者顔をしてのさばる。それを暴く人は片っ端から命を狙われる。そういう国であることが怖いのだ。

 天皇制の支持団体である神道の信者の中心層が朝鮮系であることも不安材料である。それは私が過去に受けてきた被害の加害者のほとんどが朝鮮系だったことに起因する。

 彼らの中には、天皇と同じ血筋であることを誇る気風が見られるが、神の血筋というのは嘘だったのに、なぜ誇れるのか? 百済人の血は土着民族より優れていると言いたいのか。天下を取った百済人は土着民族の上に居座って国民の自由を奪い、平等を破壊し、命をも奪ってきた。平和憲法が危うくなっているのは彼らのせいである。

 不安材料ばかりの中にただ一つだけ、拉致問題は北朝鮮と安倍首相の話合いならば、同族だから恐らくスムーズに解決できるだろうと私は思う。

 日本が戦争に負けたとき、日本を占領したアメリカは、北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人に対して、日本からの独立を望むか否かを問うた。各々の民族の自主性を重んじた民主的なその配慮には心を打たれる。民族ごとの独立までは考えないけれども、いまの私は百済人支配から一刻も早く逃れたくて仕方がない。こういうことを書く人間は著名人であるほど暗殺の対象にされかねないから恐ろしい。天皇制反対を唱える人たちを密かに片っ端から潰していくその卑劣さは許せない。これこそ藤原流、つまり百済人独特の手法であり、いまの政治が戦後最悪なのは百済色が濃くなったためだと思う。天皇制反対論者は総じて賢い。それが潰されていくため、日本国民の質がどんどん低下しつつある。やがて、日本の国力衰退へ繋がっていくであろう。

 

(六)桂宮の訃報に接して

 桂宮は「天皇制は人間を不幸にする」とおっしゃるほどだから極めて見識高い方であり、逝去が惜しまれる。皇族の口から出た言葉だけに重みがある。天皇制は思慮ある善良な皇族には苦痛をもたらすであろうことが分かる。

 対照的に浮かぶのが伏見宮および同系の閑院宮である。『天皇』(山口修)によれば、伏見宮家は五百六十年余にわたって天皇家とは血縁がなかったのに明治のどさくさに紛れて皇族に復活したらしい。著者が非常に憤慨している。伏見宮および閑院宮は対米英戦開戦前に菊の御紋章の御威光をもって軍を動かす要職に就き、日本を戦争に引きずり込むのに大いに貢献した。『天皇の昭和』(三浦朱門)にその記述があり、次の率直な言葉がそれに続く。

「能力のない者が、家柄や官位、勲章などによって、責任ある地位にあることの恐ろしさをこの二人(伏見宮、閑院宮)は後世に教えている。」

 まさに至言であり、これこそ天皇制の弊害の表われと言えよう。それだけではない。どうしても私の記憶から消えない伏見宮に関する行状記がある。あの忌まわしい特攻兵器をつくるよう提案したのは実に伏見宮であり、日本国民の命を粗末に扱った点で伏見宮は際立っていた。伏見宮家の血筋は皇室とは認め難いとする山口修の言葉から察すると「明治維新」によって登場した宮家だろうか。明治維新の影の部分は想像していた以上に深く暗いものだったということか。明治維新を洗い直さない限り、日本の国は新生できない気がする。

(二〇一四年 六月二十九日)

戦争を知らない世代へ伝えたい

初出『ちば文学』第17

 

 1 国家神道と天皇制

 

神道に属する人の中には

「自分は天皇の子孫だ」と誇る人が少なからずいる

その一人に誘われて 神道の集会に参加したところ

壇上に立つ男性が 叫んでいた

「日本は 戦争に負けて 駄目になった

日本を 再生させねばならない」

そうか

日本を 大日本帝国時代に逆戻りさせようとしているのは

貴方たちか

それは とんでもないことだ

戦後生まれの貴方は

知らないだろうが

負けたからこそ 日本国民は

自由 平等 そして平和を

獲得できたのです

負けて幸せになったのです

『お国のために死ね』の

軍国主義はもう

真っ平です

軍国主義の根っこは

国家神道でしたが

国家神道の中心は 天皇教でしょうか?

でも 天皇個人の責任ではない

平成の初め頃に 私は

宮中歌会始に入選して

直接 天皇からお言葉を頂きましたが

籠の中の鳥のように

自由のない 天皇の生活が

つくづく お気の毒に思えました

解放してあげたい

自由にしてあげたい

なぜ 天皇制があるのですか

どうして 必要なんですか

大日本帝国時代の天皇制は

国民から 自由と平等を奪い

それに対する批判を 許さなかった

国民は弾圧され 縛られ 不幸でした

平成のいま 日本は明らかに

その時代へ逆戻りを始めました

天皇制のせいではありませんか?

天皇制は右翼としっかり繋がっている

右翼が天皇制を守っている

 

その右翼は 八十パーセント以上が日本人ではないそうですね

私は右翼がとても怖い

右翼に繫がっているものは どれもこれも怖い

右翼と繫がっているから 天皇制は怖いのです

怖いものづくめの日本

怖いものが存在する日本は 嫌です

どうか 怖くない日本であってください

そのためには 右翼と無縁であってください

そして 天皇を自由にしてあげてください

国民を支配する手段に 天皇を利用しないでください

天皇制は 天皇をも 国民をも不幸にしているのです

「神である天皇のために死ね」と言われた時代の

不幸を私は決して忘れることができません

天皇制がある限り 再びあの時代が来るのではないか

との恐怖から 逃れられないのです

天皇制は恐怖です 怖いから

天皇制は無くなって欲しいのです

 

 

 2 戦争の悲劇

 

一九四五年

学徒動員されて 名古屋御成通りの

大東紡績工場で働いていた

私たち女学生は 或る日

工場の係長から 激励の訓辞を受けました

「私は 中国戦線で戦ってきた帰還兵です

戦場は 容赦ない殺し合いでしたが

わけても哀れなのが あなた達の年頃の

クーニャン(中国娘)でした

暴力を受け 実に悲惨な目に遭う姿を

幾度も見てきました 恐ろしいことです

そうならないために 日本は

何が何でも 勝たねばなりません」

それを聞いて 私は

「娘が受ける暴力って どういうことかしら」

と思った

帰還兵の憂慮が現実になり

負けたがために

満州から 樺太から

引き上げてくる道中で

中国の男たちから

ロシアの男たちから

日本の女たちも

悲惨な目に遭わされました

どんなに辛かったことか

恐ろしかったことか

悲劇ばかりだった

戦争はもうこりごりです

 

 

 3 慰安婦像に涙する

 

椅子に掛けた いたいけな少女像

膝の上に 握りこぶし

キッと見据えた 怨めしげな目

テレビ画面に映った 韓国の

慰安婦像を見て

私は胸が 潰れる思いです

日本の女たちもやっぱり

慰安婦として

同じ目に遭わされました

戦争を体験したから

男尊女卑の現実を見てきたから

私には 少女の口惜しさが分かるのです

男たちもまた

お国のために死ね 死ね と強要されました

半島も 内地も ひっくるめて

日本国民の男も女も不幸にされた

その大日本帝国の罪業が

裁かれなかったために

平成のいま 日本は

回れ右をして 大日本帝国に戻り始めてしまったのです

大日本帝国は 裁かれるべきでした

裁かれたならば 日本は

民主国に 生まれ変わっただろうに

裁かれなかったのが残念です

 

女たちを 男を楽しませる道具として扱い

男たちには死ね 死ねと強要し

国民を不幸にした大日本帝国を 私は憎みます 恨みます

平成のいま 日本が

大日本帝国に戻りつつあることは 許せません

命がけで 食い止めたい

 

近年アジアで 脅威の的になっている 北朝鮮の姿は

かつての大日本帝国に そっくりです

軍服の形や色だけでなく

整然たる行進までが そっくり

まるで 大日本帝国の

意志を受け継いでいるかのように そっくりです

大日本帝国と 北朝鮮は同じ民族みたいだ

と 高齢者たちが囁き合っていたら

何と本当に 同じ民族のどちらも

百済人だったのです

金容雲著『「日本イコール百済」説』が

それを証明しています

北朝鮮と日本は その支配者の血筋が

世襲制によって受け継がれている点まで同じです

世襲制による支配は

独裁に通じます

民主主義に反します

 

あの慰安婦たちを泣かせたのは

百済人だったのです

 

(二〇一七年 六月十日)

暗記よりも思考

初出『琅』32

 

 養老孟司『バカの壁』の中に面白い言葉を見つけた。

 小タイトル「東大のバカ学生」としての記述だが、口述試験のとき幼稚園児並の回答をする学生がいた、と呆れ果て、かつ嘆き、入試の選別方法に問題があるのでは、と問うている。実は私もかねてから同様に感じていた。入試は暗記力による選別であって、思考、創造など高度な能力は試されていない。これでは真の賢者を選ぶ基準にはならない。加えて東大生が受ける教育自体にも問題がありはしないか。私の身近なところに五十代後半の東大出の男が二人いて、八十八歳の私とはまるで別世界に生きているかのごとく、考え方が異なり、意見が食い違うために時に論争になる。すると「無学なお前の言うことなんか」と私を侮る。確かに私は戦時中、学徒動員されて工場で働いたため無学だ。だが人生体験が三十年も私の方が長い。そこから獲得した人生の知恵についてはとんと考えが及ばないらしい。ということは、愚かさの表われではないか。

 養老孟司『ガクモンの壁』の中で超常現象に触れているが科学の踏み込めない分野については、不信感を抱いて書かれているように私は感じた。実は私が対立する二人の東大出との論議もそこに集中する。私は亡夫の初盆一九八八年以来現在まで同居の末娘と共に幾多の不思議体験を重ねたがために、霊の存在を確信するに至った。念のために自分の意思で精神鑑定も受けたがまったく正常であるとの太鼓判を精神科医から頂いた。末娘と私の顔や手だけでなく身辺に金粉がしばしば出現したのだが、東大出の二人は「霊などない」「金粉の出現など物理的にありえない」と断定してはばからない。彼らは科学万能主義か。私を精神異常者か嘘つきだと言いたいのか。私の怒りが沸騰した。

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 霊や金粉については既に宗教界の多くが体験例続出で疑う余地のない問題とされてきていることも知らないらしい。「自分こそ叡智の最高峰に立つ人間だ」との自惚れが超常現象否定に繫がるのか。東大を過大評価する学歴社会は間違っているのではないか。

 私が育った家は九人家族だったが、その中で存在感が大きいのは祖母だった。明治初年生まれのため家族の中で一番の無学にも拘らず、思考能力や創造力に長けていた。一例を挙げると扇風機も冷房もない夏を乗り切るために、祖母は和服の襦袢の袖を外して身頃だけを身につけて涼を取るという珍しい人だった。固定観念に捉われない発想が幼い私の目には新鮮に映った。この祖母を見てきたがために、私は人間の真の賢さは学問とは別のところにあると考える人間になったのである。

(二〇一七年 三月十五日)

脳梗塞体験記

初出『琅』31

 

 十年以上も薬を飲むことなく元気に過ごしてきた私だったのに、遂にダウン、脳梗塞を発症してしまった。

 二〇一六年、桜便りの聞かれる頃だった。夜の九時頃、自分の部屋で私は腰掛けていた椅子から不意にずるずると滑り落ちて、仰向けに床に転がった。あわてて起き上がろうともがいたが、立ち上がれない。大声で呼び立てたら、末娘が飛んできて後ろから私の上半身を抱えて引き起こしてくれた。左腕に違和感を覚えるので見ると、左腕がだらりとぶら下ったまま動かない。右手で押してみると、ゆらり、ゆらり、と揺れる。左腕はまるで丸太棒のようにずっしりと重い。脳梗塞の発症だな、と気づいた私はその場にじっと座ったまま、救急車を呼んでもらって、その到着を待った。

 ピーポーピーポー鳴らしながら走る救急車の中で、救急士が私の両腕と両脚を入念に調べた後、私の左手を握って「握り返してみて下さい」と言ったが、まったく反応できなかった。続けて救急士は言った。「あなたは軽くてよかったですね。もっと重い人が多い。死ぬ人だってあるんですからね」この言葉はその後の私の心の支えになった。自分は軽いのだからめげてはいけない。頑張らなきゃ、と。

 搬入された救急病院で昼夜に亘る点滴を九日間受けた。点滴の管から解放される日のなんと待ち遠しかったことか。

 入院した翌日には、思いがけないことに左手指先がピクリと動いたので、あっと思った。そういえば、医学書には発症直後は安静にこだわらず一日も早くリハビリを始めた方が効果的であるとの記述があったことを思い出した。ベッドに横になったまま私は自分で指先を動かす努力を始めた。グー、チョキ、パーを繰り返した。トイレに行こうと起き上がる度に左腕がずっしりと重いので、三角巾で吊りたいと思い、看護婦に申し出たところ、主治医の指示があるまでできないと言う。受診の日までなんて辛くてとても待てない。末娘に頼んで三角巾を用意させ、自分で左腕を肩から吊るしたところ、先生の許可がないのにと看護婦に叱られた。重さに耐えられないから私は看護婦の注意を無視して三角巾を外さなかった。自分は我儘な患者だろうな、とは思うものの苦痛は一日も早く和らげたかった。

 指先は一日目より二日目、二日目より三日目と日毎に動きが増していき、腕が少しずつ持ち上がるようになって、数日のうちに肘が胸の高さまで上がるようになった。左手にお茶碗を載せてみると、そのまま食事ができる。これはリハビリになるな、と気づいたので私は三角巾を外した。そうしたらまたもや看護婦から注意された。

「先生の許可なく外してはいけません」と。

 なんということだ。それではお茶碗が持てない。リハビリもできない。私は憤懣やるかたない心境になった。

 それだけではなかった。私は左腕こそ動かなくなったものの、脚の方は左右とも健全である。杖を使わずに歩ける。なのにトイレへ歩いていってはいけない、と車椅子に乗せられた。発作直後に歩くと再発とか悪化の恐れがあるのだろうか。それならそうと説明してくれればよいものを。

 点滴から解放され自分の脚でトイレに通えることになって、やれ嬉しやと思ったら、今度は杖を使わなければいけないと指示された。これがまた厄介である。なぜならば杖などなしで歩ける身だから、杖を洗面所やトイレに置き忘れしてきてしまう。取りに戻るということを何度繰り返したやら。私は馬鹿馬鹿しくなり、腹が立ってきた。そうは言うものの、職員の皆さんは笑顔いっぱいで優しかったから、自分は桁外れに我儘な患者だろうな、という自覚と済まなさは感じていた。

 結局、救急病院では四週間お世話になり、いくらかのリハビリ治療も受けたりした後、ベッドの空くのを待っていたリハビリテーション病院に転院することになった。転院の日にはエレベーターの前や病院の玄関先でリハビリの先生や看護婦が見送って下さったのには感激。涙が出た。

 転院先のリハビリテーション病院ではベッドが百五十余あり、九十余名の療法士を擁して、リハビリの質が抜群に優れていると私は感じ取った。毎日一時間のリハビリを三回、計三時間受ける。お陰で私の腕は万歳ができるようになった。上方向だけでなく、横にも後ろにも回り、ぐるぐると回転させることも可能になった。

 リハビリの質が高いだけではない。この病院には愛情が溢れている。病院の廊下で行き会う人たちはスタッフも患者も会釈を交わし合う。にっこりと微笑む人もあって和やかだ。リハビリのお世話になった先生方は顔を覚えていて下さって、どこで出会ってもにっこり笑い、中には握手を求めてくる人もある。若い男性の先生は特にふざけて冗談で患者の心を和ませることが上手である。

「山本さん、近所のゴミ拾いをしていたんだってね。道理で私が○○町(著者の住む町)を通ったら、ゴミ一つ落ちていなかった」と言うHT先生の言葉に、私はお腹の皮をよじらせて笑ってしまった。

「山本さんは色が白いですね。何か塗っていますか。何も塗っていない? 若い時からずっとなの? その方がいいのかも知れませんね」さらに

「山本さんの笑顔は実に素晴らしい」はTM先生の言葉。

 単純な私は「えっ、私の笑顔が素晴らしいって?」と嬉しがって洗面所の鏡の前で一人でニッと笑ってみたりした。後で、先生の褒め言葉は病人を励ますための、つまり心のケアだったと気がついた。オメデタイな、私は。

「山本さんは本当に元気だね。百二十歳まで生きられるよ」なんて言われる筈だ。

「もっと若い時に知っていたら、ボク、山本さんに惚れてしまったかも知れない」と見事にふざけてみせたMF先生は、ひょうきんで面白い若者だ。そういう私は口軽婆さんか。「先生たちは孫のように可愛い」と言ったら、すかさずにゅっと手を突き出して「お年玉頂戴」と言った先生とは漫才のコンビが組めそうだ。

「山本さんが歩けなくなったら、私が抱っこしてあげる」とHM先生。冗談と思ってもその優しさが嬉しい。退院の日には

「もう私が抱っこする必要はなくなりましたね」と祝福して下さった。

 じっと私の目を見つめて視線を離さずリハビリを続けてくれる先生があって、私はその目に心を引き寄せられそうな自分を感じた。自分に注がれる視線は眩しい。その温かい視線は人の心を引き寄せる。そこで気がついた。人の和の秘訣はここにあるのではないか。見つめ合う。重ねて和やかな笑顔。握手。さらに抱擁。その上での心を開いた会話。これらは世界共通の友好表現であり、人類にとっての最高の幸せ、平和を守る手段ではないか。平和を守るために必要なのは決して軍備ではない、とつくづく思った。

 各階毎に食堂がある。脳梗塞患者は歩けない人が多い。食事時には車椅子の人たち三十人ほどが集まってきて食卓を囲む。この人たちは食べ物を飲み込む力が弱くなったり、箸を使えなくなって食べるのに時間がかかる。歩ける人は稀な中で歩き回っている私は食事も一番早く終わるのでどうしても目立つ。看護婦が近寄ってきて「山本さん、あなたがどうしてそんなに元気なのか秘訣を知りたいから会わせて、という患者さんがいるよ」と一人の女性患者に引き会わされた。その人の手を握ってみると、指先は動かせるのに動かそうとしない。私は自身の努力が必要なことを話してグー、チョキ、パーに毎日励むよう勧めた。私が食堂に姿を見せるといつもすがりつくような目で車椅子の上から私を見つめる女性患者がいる。その肩に手を回して私が「頑張ってね」と声をかけると、じわーっと涙を浮かべる。辛いだろうな、歩きたいだろうな、と思うだけで私まで涙が込み上げてくる。その他に三度の食事時に車椅子で食堂へ集まってくる患者のうち、表情の暗さから私の心にかかっている人がある。声を掛けると硬い表情のまま頷くだけだったその人がやがて私の言葉に答えるようになった。いまに笑顔も・・・と思っているうちに私が退院してしまった。会いたいな。あの人たちは今どんな思いでいることか。どうか明るい気持ちになって欲しい。

 入院生活を笑って楽しんで生きている人など滅多にあるものではないが、この私は入院中もケラケラとよく笑った。お腹の皮がよじれるほど笑った。なぜ笑えるのか。私はとにかく今こうして生きているということが嬉しくてたまらない。病んだ時、人の心が暗くなるのは病気を案じ死を恐れるからであろう。私にはその恐れがない。死を恐れる人たちにどうしたら私の考え方を伝えられるのか。死は現世以上に素晴らしい霊界への移動である。恐れるどころか、楽しみにすべきことなのだ。

 結局、このリハビリテーション病院には六週間お世話になった。温かい先生や看護師たちに見守られての六週間は実に楽しかった。退院の日、主治医のMS先生は左手で私の右手を握り、右手で私の左手を握りしめて下さった。リハビリによって復活した私の指の力を確かめたくてのことであろうか。そこに私は先生の温かい心を感じて嬉しかった。「忘れられない楽しい入院生活でした。ありがとうございました」と言った私の言葉に対する先生のコメントが振るっていた。

「私のこんな顔でもよかったら、思い出して下さい」

 大きな目をぎょろりとさせて、口元をほころばせたMS先生の顔は最高に魅力的だった。

 何人もの先生が、私の回復の速さを驚き感心して下さったけれど、私としては自分が他の患者よりどの程度に速いのか見当がつかない。訊いてみても、「人それぞれ。千差万別ですよ」の答えしか返ってこない。

「山本さんの回復の速さは不思議現象の一つかも知れませんね」と言って下さったSD先生の言葉には感動。リハビリを受けながら私がしゃべった自分の不思議体験を大抵の先生は軽く聞き流してしまう。けれども、SD先生は真剣に受け止めて耳傾けて下さったのだ、と思うと本当に嬉しかった。思考が深くて温かい人に違いない。長身だけれど心はとても細やかなSD先生とはもっともっとお話をする機会が欲しかったなあ。

 脳梗塞は脳神経が冒されるため、手足だけに限らず、話す能力や記憶能力、思考能力が衰える場合もあるから、言語リハビリ担当の先生から患者はあらゆる角度からの質問による検査を受ける。私は幸いなことにこの点には問題なく、担当のHA先生との面接は二回で打ち切りになった。一回目の面接には「今日は何年何月ですか? ここはどこですか?」に始まる質問で最後は趣味を問われた。書くことと答えたら、その内容を問われ、著書名まで問われた。次の面接でHA先生から「山本さん、図書館で調べたらありましたよ、あなたの本」と声を弾ませて言われた。拙著『改訂版 墓標は語る』がアマゾンで定価五百円が五千円から五万円の値をつけられていることが知れ渡り、これがため私は流行作家扱いされてしまった。『改訂版 墓標は語る』の反応はすこぶる良かったが、中でも永六輔氏からは、「拍手! 脱帽!」という身に余る賛辞を頂いた。この方のお力でアマゾンの値が吊り上がったのかな、という気がしている。

 エレベーターの中で出会ったHA先生から「山本さん、読みましたよ。凄いわね」と声を掛けられて私は恥ずかしいやらきまり悪いやら。「また書いてね」とか「オバマ大統領の広島来訪時のメッセージに対する感想を書いてね」と言われたりした。それにはまだ応えていないので、代わりにここで簡単に一言で答えておきたい。オバマ大統領のメッセージは実に幅広い観点から深く掘り下げて語られているので強く感動した。それに較べて日本側のメッセージは表面的なありきたりの平和論に過ぎず、お粗末に思えた。

 退院後の私は、リハビリ担当のTM先生から頂いた自主トレメニューを自分の部屋の壁に貼って、そこに書かれたリハビリを毎日実行している。つま先立ち運動、お尻突出しての膝曲げ運動、また寝た姿勢での腰上げ運動や脚上げ運動に加えて、毎日三十分ほどの散歩を心がけている。

 脳梗塞は人間の体が地震を起こしたようなものに思える。微震だと思った私なのに、どうやら影響は全身に及んでいたらしい。発症と同時にぱったりと夢を見なくなったことや、ビロウな話で恐縮だが、沈黙のおならしか出なくなったことからそう感じた。発症後八十七日目から夢を見始めて「脳の復活だ」と喜び、五か月ぶりに音が出たときは「腸の復活だ」と喜んだ。なんでも喜びの種になる私である。だが、この先も復活への道一筋とは限らない。予震の後に本震が来るように、脳梗塞は再発がかなり多いと聞く。再発を防ぐことができれば、リハビリに励むことで手脚の筋肉が鍛えられ、結果的には足腰を強めて長命に繋がるかも知れない。よく体を動かし、心を安らかに保つことによって再発を防ぎたい。

 少し横道へ逸れるが、自分はいよいよ人生の終着駅に近づいたかなと思うたびに、懐かしく蘇ってくる二人の恩師の話に触れたい。まずは小学校一、二年の担任だった小川百合先生の九十歳頃の姿。「文子さん、お友達を誘って遊びに来てよ」との電話を先生から再度頂いたので、先生宅を級友四人で訪れたのは二十年くらい前だった。先生を囲んでのおしゃべり中に私の頬から金粉が出始めた。「あっ、文子さんの顔に何か光っている。また増えた」と平野富貴代さんが叫び、みんなが総立ちになって私を取り囲んだ。以来、私は同級生たちから霊能者扱いされるようになってしまった。小川百合先生からは「文子さんには神が宿っている」と言われた。この時の五人で今健在なのは平野富貴代さんと私の二人だけだ。小川百合先生は百歳まで自立を全うされた。私もそれにあやかりたい、と願っている。もう一人の恩師三年の担任だった梅村芳郎先生は昔、新聞の地方版に拙著『金粉のメッセージ』『詩歌集 蟻んこの独り言』の紹介文が顔写真と共に載ったとき、「あなたは宝です。大成して下さい。あなたなら出来る」とのお手紙を下さった。大成から程遠いために私は梅村先生に顔を合わせられないから、まだ死ぬわけにはいかない。大成とは何ぞや。世の中に益する人間になること、と思っている。

(二〇一六年 九月二十四日)

神道の正体

初出『未踏』70

 

神道の血筋

 ちょっとした事がきっかけになって、私の「なぜ? なぜ?」の追究人生が始まる。「神道ってどうも変だな」の思いは長女の婚家の人たちの血筋へのこだわりを見た時から始まった。

 私の長女は高校時代のクラブ活動で、部長、副部長という関係で親しかったクラスメートと一九八四年に結婚した。相手は通産省勤務で親族揃って神主を副業とする公務員一家であった。私の兄嫁の里がやはり神主兼公務員一族だが、これは偶然の一致だろうか。一族揃って神職に就くだけでも奇妙なのに、公務員を兼ねる点まで一致しているのは一体どういうことだろう。なぜ公務員が神職を兼ねるのか。また長女の夫の目が兄嫁にそっくりな目尻が上がっていることは同じ血筋どころか同じ民族だな、と私に強く感じさせた。この両家の共通点として血筋にこだわる傾向がある。特に長女の家はそれが強くて、挙式のあと舅に当たる人から聞かされたところによると、始祖は天照大神で、天皇家の血を引くという。誇らしげに聞かされたその言葉は私に大日本帝国時代の辛苦を思い起こさせた。「天皇は神である。天皇のために死ね」と言われてどれだけ多くの人が死んでいったことか。日本国民を苦境に追いやり、アジアをはじめ南方の多くの国々の人を痛めつけたことを考えると軽々しく「天皇家の血を引く」と自慢できるものではないのに、神道の人たちが天皇との血の繫がりを誇るのはなぜか。天皇を尊ぶと共に、戦争責任を感じないからということか。

 加えて、神道の中核に属する人は、国家権力の座にある人との距離が極めて近いと知り、これが私の心に引っ掛かった。天皇家の血を引くということはそれがいかに細いものであっても、就職への太いコネの役目を果たすことになるらしい。つまり通産省に採用される力を貸してもらったり、仲人の役を果たしてもらうなどの恩典を受けられるということである。

 

神道と公務員

 末娘が国家Ⅰ種公務員試験を一九九五年に受けたことによって、私の神道に対する謎が一層に深まった。同一試験区分の受験者一九九四名中四位という好成績で合格を果たしながら、末娘はコネがないがために採用が叶わなかった。国家Ⅰ種公務員の採用方式そのものに私は引っ掛かりを覚えた。採用法が妙だ。次の方式で行われる。

 ★ 採用人数の二倍ほどが合格になる。

 ★ 合格すれば、内定を取るための官庁訪問は必ずしもその年でなくても、訪問資格は三年間保たれる。

 ★ 宮内庁だけは試験に無関係の世襲制採用である。

 なぜ官庁訪問をその年だけに限らないのか。なぜ二倍もの合格者を出すのか。これははっきり言って、能力の低い合格者に対する恩恵ではないか。つまり能力はいまいちの中に採用側が求めたい種類(神道系?)の人物があるということか。ここでは採用にコネの有無が大きくものを言うらしい。コネの必要性は耳にたこができるくらいにあちこちから聞かされたが、私はコネを好まないからそれを無視した。

 確かなコネのある人は三年間悠然と構えて、入りたい省庁の枠が空くのを待てばよいから、三年の猶予は明らかにコネ保持者への特典であろう。二倍合格はコネのある低成績合格者への恩恵と考えられる。彼らのライバルであるところの、コネを持たない好成績合格者を蹴落とすにはもってこいの方式であり、その巧妙さは驚くばかりである。国家権力を握り続けるための野望がいかに大きいかが分かる。こうして独裁政治が生み出されるのだな、と私は気づいた。

 ちなみに国家Ⅱ種、Ⅲ種公務員試験の場合はこれと異なり、地方公務員と同様、合格者のほとんどが採用になる。なぜⅠ種だけ異なるのか。採用する側が意図する人材を入れたいからだ。何のためか。独裁化のためだ。Ⅱ種合格者の中にはⅠ種合格者を上回る優れた人材が珍しくないと聞いたことが納得できる。

 宮内庁の世襲制による採用には更なる異常性がある。天皇家同様に世襲制であるということから多くの事実が推理できる。宮内庁の血筋は日本を支配する氏族そのものの血であろう。彼らこそ天皇制の黒幕に違いない。血筋差別の根っこはここにあると考えられる。

 国家公務員の採用に限られたことではなかった。長女の夫は、公務員が駄目なら大学教授を目指すつもりだと言っていた。大学教授と言えば思い出さずにおれないことがある。随分昔のことだが、東大へストレートで入学した息子がぼやき始めた。「教授の講義がつまらない。あんな講義を聞くくらいなら自分で本を読んで勉強した方がましだ」と言って、授業には全く出なくなってしまった。東大の教授ともあろう人がそんな筈はない、息子の目が節穴なのだろう、とばかり私は息子を責め立てて授業に出させようと必死になったが、いくら説得を試みても無駄だった。卒業はしたが、息子は権力の座を嫌う人間になってしまった。その息子の言動は私の価値感を根底から覆させてしまったのである。

 私は考えた。教授は実力による採用ではなかったのか。コネがものを言ったのか。その後になって、一流国立大学教授よりもむしろその他の大学教授の方が質が良いという説を耳にしたが、国家Ⅱ種公務員採用者の中にⅠ種を上回る人材がある、の説と共通する点が考えさせられる。日本はコネ王国なのだろうか。

 

神道と三人の首相

 二〇〇〇年、首相が密室で決められて思わぬ人が浮上した。森喜朗氏。その第一声たるや「日本は天皇を中心とする神の国だ」だった。大日本帝国に戻ったのかと私はヒヤリ。「天皇は神だ」「天皇のために死ね」の言葉が出てくるのではないか。次の小泉純一郎首相、安倍晋三首相が靖国参拝にこだわるのを見て、この三人は同じ仲間だな、と思い不安が広がった。靖国に関する加藤紘一氏の発言が原因の同氏選挙事務所放火事件と、天皇に戦争責任ありの発言者長崎市長への発砲事件はこの両氏在任中に起きた。因果関係を思わずにおれない。

「民主主義はよくない」

「人間には命を捨てても守らねばならないものがある」

 と恐ろしい言葉を口にしたのは安倍晋三首相だった。首相の靖国参拝は軍国日本の復活に繫がる危険を孕んでいるのに、口先では平和を唱える首相のその欺瞞が恐ろしい。本当に平和国家を目指すなら、首相を始め閣僚の靖国参拝は断じてやめるべきである。この人たちに正しい歴史認識が確立されていないのは戦後生まれのせいか。

 靖国は神を騙る「国家神道」という組織の中で生まれたものであり、キリスト教信徒の中には国家神道は宗教の仮面を被った危険な組織だという見方もある。

 神道には、宗教にとって必要不可欠なはずの経典や教えすらない。宗教ならば信者のための墓が用意されている。ところが神道には信者用の墓がない。神道信者の墓は寺などに依存している。そのこと一つを見ても神道は宗教とは言えなくなる。

 戦争が終わった後しばらくのあいだ新聞には靖国を神社から切り離すべきだ、との読者の声が後を絶たなかった。「また載ったな」「また。なのになぜこの意見は無視され続けるのだろう」とここでも私に謎が生まれた。靖国が神社形態であることは戦争への火種を抱えることになりかねない。国家神道そのものがあの戦争への協力者だったことを考えると、日本は再び来た道へ戻りつつあることがはっきりと見えてくる。分かるのは戦争体験者だけだろうか。靖国神社は戦犯合祀だけが問題ではないのだ。

 

皇族の活躍

 三浦朱門『天皇の昭和』によれば、伏見宮及び閑院宮は菊の御紋章の御威光を持って軍を動かす要職に就き、日本を戦争に引きずり込むのに大きな貢献をした。あの特攻兵器を作るよう提案したのは伏見宮であった。その残虐性に世界があっと驚いた。また朝香宮は日本が降伏する際に国体保持すなわち天皇制継続を条件とすることに固執した。これらを考えると皇族たちのしたたかさは驚くばかりである。天皇制継続とはそのまま彼ら自身の支配力継続に繫がるであろう。

「宮」という呼称について一考したい。かつて天皇は神であった。宮は神の一族を示す言葉だ。天皇が人間宣言された時代に宮は相応しくないし、神ではなくなった以上、「天皇」の名称もそぐわない。

(二〇一六年 八月二十六日)

空爆予告ビラ私も見た

 中日新聞八月六日付「『原爆予告』聞いた」の記事は多くのことを考えさせられた。私も別の所で別の時に米機が撒いたビラを読んだ一人である。文面は「八月十六日に名古屋から北へ犬山まで空爆しますから避難して下さい」であり、名古屋北に隣接する春日井市で拾われたものだった。空爆に先立ち二、三日前に一機の米機が飛来するのがお決まりであり、これは予告ビラを撒くのが目的だった。日本政府は「チフス菌がついている」と虚言で脅し、拾うことを禁じた。予告を参考にしないのはなぜか? 政府の姿勢には腑に落ちないことが山ほどあった。「捕虜になるよりも自決せよ」と南方戦線に送られた兵士達は食糧や兵器を補給してくれない政府を恨みに恨んで餓死していった。片道飛行の特攻兵器は日本独特のものでその残忍さが他国を驚かせた。ブラジル移民や満蒙開拓団として土着民族を追い出し苦労させた。その一方で労働力不足を理由に当時植民地だった朝鮮半島から多くの人を連行してきたから、敗戦時の日本には半島訛りの朝鮮人が溢れていた。朝鮮半島の人達で日本列島を埋めたかったのだろうか。

(二〇一六年 八月七日)

天皇制の黒幕が怖い!

 二〇一五年十一月のことだった。

 帰宅した末娘の奈実が玄関を入るなり怯えた表情で言った。

「お母さん! 私ね、数人の男に連れて行かれそうになった」

「えっ! どういうことなの?」

 語った一部始終は次のようであった。

 その日、奈実は名古屋市に隣接するK市において開催された「戦争に関するシンポジウム」に参加した。

 講習は丸一日をかけて①数人の講師による講演、②壇上における講師同士による討論、③受講者中の希望者四十人と講師を交えての交流会、の三段階で行なわれた。末娘の説明によると、このシンポジウムの主催団体は歴史が古くて何十年も続いてきた。その代表者が近年になって急死。代わって代表者になった責任者が招いたという講師は、右翼っぽく感じられたそうな。壇上討論会の席で、たまたま講師の一人が「天皇家の万世一系は怪しい」と発言したことにからみつき、「万世一系は真実だ」と強調を繰り返したのが問題の講師だった。末娘はそれに強い反発を覚えてしまった。ために自分が参加できた交流会席上で「万世一系は嘘だ」と強調する発言を繰り返したらしい。ために自民党員を名乗る男を中心に暴力団風の男(係員として立っていた)数人に取り囲まれ、恐ろしい形相で「別室へ来い」と迫られた。「嫌です。日本は民主主義国だからあなた方に従う必要はありません!」と強く言い放って、末娘は拒否した。何十人もの参加者の面前でそんなことが行なわれたとは驚きである。天皇制は暴力団(右翼)によって支えられているということか。

 この出来事が私の心に大きな不安を植えつけた。講習に先立って受講の申し込み用紙に住所、氏名、生年月日、電話番号から職種まで記入したことから、娘の身元は簡単に割れると思える。娘の身元を割り出して何らかの危害を加えはしないか。転居を考えねば。

 私は不安のあまり怖い夢を見るようになった。玄関先に暴力団員風の男が立ちはだかり刃物を振りかざしてきたり、ピストルを突き付けてくる夢だった。この出来事によって、私と奈実は天皇制への怒りと恐怖に取りつかれてしまった。

 そもそも私が天皇制に注目するようになった発端は、六十代のとき初詠進で宮中歌会始に入選したことから始まる。参上した宮中での見聞体験はあまりにも異様、かつ強烈過ぎるものだった。まず宮中で参内者は一人で勝手に歩くことが許されない。歌会始の入選者十名は必ず縦一列になって宮内庁職員を先頭に、真っ直ぐと直角にだけ歩く。斜めや曲線に歩くことはできない。その様相に私は仰天した。何と異様な世界であることよ。それだけでない。天皇からの御下賜品を頂くときは、一人ずつ名前を呼ばれて前に進み出て御下賜品を受け取り、それを両手に高く捧げ持った姿勢のまま後ろ歩きに自分の席までかなりの距離を戻らねばならない。御下賜品を両手に高く捧げ持っているために視界が狭められる。着慣れない留袖姿なので裾さばきも容易ではない。ここでひっくり返ったら一大事だ、と冷や汗もので一歩一歩踏みしめながら後ろ歩きで下がることの難しさ。

 これはどういうことか。敗戦によって人間宣言されたはずの天皇が戦後数十年も経たいまも、宮中では神扱いされているということか。私の胸を恐怖が走り抜けた。かつての大日本帝国そのままの危険因子が潜んでいる。それをひた隠しにしたがっている姿勢がちらちらと見えて、宮中は厚いベールに覆われていることが分かる。ガラス張りにされないことに私は危惧を覚えたのである。

 ここで重大なことが思い浮かんだ。あの敗戦のとき日本政府が連合国側に降伏する際に条件として唯一つ国体保持を申し出たことだ。

「天皇制を継続させよ」

 という条件付きだったのである。これは重大な問題だ。天皇制について突き詰めて考えてみる必要があるようだ。万世一系、神の子孫と教え込まれて歴代の天皇百二十四代の名前を暗記させられた私たち世代は、骨の髄まで天皇制が染み込んでいる。にもかかわらず天皇制の実態が掴めないというのが奇妙だ。私はとことん調べてみようと思い立った。

 真っ先に究明したいのは、万世一系と言われている天皇家の血筋だ。幸いなことに同居の末娘奈実が研究者なので、その協力を得て七十代のこの年で私は日本古代史の勉強を始めた。神の子孫を謳った万世一系の血筋を徹底的に調べてみた結果、驚くべき事が判明したのである。私たちが教えられてきた天皇家の歴史は嘘まみれだった。天皇家は神ではなかったのみならず、大和民族でもなかった。朝鮮半島から集団で亡命してきた百済系帰化人の子孫であり、その血筋を優先させることで土着民族の上に君臨していたのだ。小沢一郎氏は「天皇は朝鮮人だ」と公言したがために嵌められたのだな。「真相暴露」だったからこそ嵌められたわけだ。百済人たちが亡命してきて以来の歴史を詳細に調べてみると、虚偽と陰謀、策略に満ちた悪質な手段による天下取りばかりだった。日本はこんな恐ろしい氏族を頂点に戴いていたのか。これが天皇制の実態だったのか。真相を知れば知るほど私は日本の支配層への怒りが沸騰してくる。「別室へ来い」と威嚇されて、意気地なく引き下がるようでは日本の国はおしまいだ。私は負けない。私は声を大にして叫びつつける。

「私の娘・山本奈実がこんな目に遭わされました。こんな日本でよいのでしょうか?」

 そのために私や娘が潰されるか、されないか、読者の皆様方しっかりと見守っていて下さい。

(二〇一六年 七月二十四日)

霊との対話

『琅』30号掲載(編集・発行 宗内 敦)

http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou_index.htm

 

初盆から霊現象始まる

 とうとう米寿になった。数え八十八歳。誕生日が来れば満八十七歳である。予想以上に長くなった我が人生のなんと奇異に満ちていたことよ。語り残さねば、の思いで筆を執った。

 思い起こせば二十九年前に夫が他界し、その初盆の日から私の身に奇妙な出来事が続いた。なぜ? どうして? の連続だったが、今は霧が晴れたようにその事由が分かってきたつもりである。取りとめなく書いてみよう。

 初盆の日のそれというのは、亡夫の遺影が目の前の座卓の上に置かれていた葡萄の汁を吸い上げたことである。壁に掲げられた遺影の前方数十センチの位置の天井に、小指の先ぐらいの小さな黒っぽい染みが二、三十個丸く集団になっているのを発見したのが事の始まりだった。座卓の上に椅子を積んでそこに乗り、指先で天井を触ってみると湿っている。何だろう? 次に気付いたのは遺影から下の襖にも点々と不揃いに床まで数個くっついている。更になんと遺影の口元や頬辺りにも数個、どろりとした水滴がくっ付いている。それを指先ですくい取り、嗅いでみた末娘奈実が「葡萄の匂いがするよ」と言うので、私も真似てそれを舐めてみた。確かに葡萄だった。これらの染みの数を数えてみると、一房の葡萄の粒の数に匹敵するようだ。つまり一粒から一滴が飛び出したということだろうか。考え巡らすと葡萄の置かれた場所を起点として、天井、遺影へと放物線状に染みが残っている。どうやら夫の遺影が葡萄の汁を吸い上げたらしい。まさか、と思ってもそれ以外に考えようがなかった。

「亡夫の霊が来たんだ。昔から言われている、初盆に先祖の霊が帰ってくるって本当だったのか」

 私の心に衝撃が走った。人間死んだらおしまいと思っていたのは誤りだった。霊は存在するのだ。それを知らせたくて夫の霊がこんな仕業を見せたに違いない。夫はいなくなったのではない。霊になって存在している。そして私たち二人を見守っていてくれるのだ。

 そう思ったら私の心が一遍に軽く明るくなった。夫に見守られているとの思いに支えられることで私の人生は本当に楽しく幸せなものになった。生きている間は座布団のように私の言うがままになってくれた夫。私は心の中で「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返すようになった。

 数々の霊現象の中で特に目立ったのはセットしていないタイマーを鳴らすことによって夫が意思を示したことと、末娘と私の二人の手や顔を始め、身辺に金粉が頻繁に出現したことである。原稿の上やまな板の上にもよく散らばった。特に土曜日が多かった。なぜ金粉が出るのか。何のために出るのか知りたくて、私はあらゆる宗教家たちに訊いてみた。既成仏教は「超常現象については否定も肯定もしません」との答えだったが、新興宗教のほとんどは見事な肯定ぶりで「金粉はよく出ますよ。霊界からのメッセージで良い知らせです。私たちも一生懸命金粉を集めるのですが、結局はやがて消えていきますよ。信者の皆さんには出る方が多いです」と言われた。ただ一つ、神道だけはまったく異なっていて「金粉の出現など科学的にありえない」と強く否定した。その否定が私に「神道はイカサマ宗教だろうか」との疑念を抱かせて、神道についてより深く調べる気を起こさせた。国家神道は古代からの神道とは別のもので、明治維新の結果生まれたのであった。その教祖は山口県の田布施という朝鮮人集落の老女だった。それまで神道だけは教祖はいないと思い込んでいたら、最近になってようやく判明した。あの明治維新というテロを起こして天下を取った重要人物や、明治天皇となった大室寅之祐たちと同じに、神道の教祖である老婆までが田布施の住民だったとは。意味重大である。このことから明治維新の真相、日本の歴史の偽りについて一層に深く私は目覚めた。これはまさに金粉の力だったと言えよう。

 セットしていないタイマーを鳴らすことで亡夫が意思表示をした、と前述したけれど、その一つに私の心に焼き付いて忘れられないことがある。こたつの中で末娘と向き合って座り、亡夫の噂のあれこれをしていて、ふと私が「このおしゃべりをきっとお父さんの霊がその辺に来て聞いているよ」と言った。その途端に「ピピピピ」とタイマーが鳴ったのに本当にびっくりした。夫が「うん。俺はここに来ているよ」と答えたに違いない。霊現象でセットしていないタイマーが鳴る時は、決まって音が弱々しかったから区別がつく。この件については後々まで折に触れて末娘と私との語り草になった。その後も娘の進路とか二人の住まいに関しての迷いが生じる時はタイマーが鳴って答えを示してくれたりした。やがてタイマーや金粉の現象が起こらなくなったと思っていたら、次は別の形に変わった。

 私は植物大好き、動物大好きで縫いぐるみのあれこれが部屋に並べてある。心温かい友人からのプレゼントだけでなく、雨に濡れた歩道に転がって泣いていた(?)のを哀れさのあまり拾って持ち帰ったものもある。その縫いぐるみたちが異変を起こし始めたのである。考えてみるにどうやら可愛がり、愛おしみ、大事にしているものには、昔の人が言ったように心が宿って、私を守る存在になってくれているらしい。

 二〇一四年十一月、夫の月命日にほんの十五分ほど家を空けた後、帰宅したところ、固く施錠してあったにも拘わらず、玄関の下駄箱の上に異変が起こっていた。花瓶が後ろ向きになり、その横に立つ男児キューピーちゃんも後ろ向きになり、並び立っていた筈の女子キューピーちゃんが仰向きに倒れていたのである。これまで数多くの不思議現象を見てきた身には、また霊現象が起こったな、と感じ取れた。先祖霊や亡夫など、霊人たちが送ってくれたメッセージの意図するところはまっすぐ私に伝わってきた。

「用心せよ。人が来ても軽々しく玄関を開けてはいけないよ」

 と言っているに違いない。

 その一年後に末娘が右翼からの脅しに遭い、私たちは急遽転居に踏み切った。下駄箱の上のこの異変があったからこそ、迷いなく転居する気になったのである。

 異変を起こした花瓶は、歌会始に同時入選したご縁で親しくなった女性からのプレゼントである。キューピーちゃんは春日井市の旧友からのプレゼントであり、男児キューピーちゃんには緑の服と、白に緑の入った帽子、女児キューピーちゃんには赤の服とクリーム色の帽子を可愛らしく編んで着せ、贈ってくれたものである。彼女は私との電話中に相手の目前に金粉が出始めて、見ていたご主人が「お前は金粉婦人だな」と驚いたそうな。それがため一層友情が深まったのである。それぞれに友の温かい心がこもっているからこそ、霊現象も容易く起こったのであろう。

 

癌が消えた?

 私にはもう一つどうしても伝えたい大きな体験がある。あれは七十三歳か四歳くらいの時だった。胆管炎を起こして入院したところ、家族を呼んだ主治医から肝内胆管癌の宣告を受けた。だが手術の成功率の極めて低い箇所だと分かったので、私は医療に頼ることを諦めて退院した。そして自然治癒を目指して瞑想教室へ通い始めた。ここで思い出されてならなかったのは、家が近くて仲良しだった二人の幼友達、すみちゃんとよっちゃんのことであった。すみちゃんは六十代半ばに脳腫瘍で、よっちゃんは七十代初めにリンパ腫であっけなく他界してしまった。二人とも手術、化学療法など、可能な限りの治療を受けたにもかかわらず、の悲しい結果だった。それを見てきた私としては、医療の限界を感じずにおれなかったのである。

 瞑想教室の先生は「癌だって精神力で治せます」と心強いことを言ってくれた。それにすがる思いで毎日二回二十分ずつの瞑想を数か月ぐらい続けた。この時の私の心の支えになったのがもう一つある。それはスプーン曲げの体験だ。テレビで高塚光が実演しながら「曲がると思えば曲がるのです」と心の力を強調した。その言葉を信じて「じゃあ、曲がるんだ」と思った途端にスプーンが粘土のように柔らかいものに変化し、指先を軽く触れるだけでぐにゃりと曲がった。これによって確かに人間の心には力があると私は悟った。だから癌も「必ず治る」と思えばその心の力で治せる。これは確信だった。だが、その思いを抱き続けることができるかどうか、が問題だ。

 結局、私は生き延びることができた。癌が消えたのか、それとも、誤診だったのかは分からないままである。以来、私は内科医とは無縁に過ぎてきた。当然ながら十年以上薬は飲んでいない。老化による関節痛で歩けない日はあったけれども、今のところは元気である。

 

亡夫の人柄

 霊現象を起こす霊人には、性格的な特徴があるだろうか。参考までに夫の人柄を説明しておこう。(株)大隈鉄工所の社員として生きた夫は真面目な働き者だったが、少し変わっていて出世欲はゼロ。部下を持つことは嫌がった。嘘ごまかしなく誠実で結婚生活三十年の間に妻の私を裏切ることは一度もなかった。私を評して「お前は人間が丸いな」と言ったけれど、そういう夫自身こそ丸い人だった。夫も私も共にシンプルな、すっきりした暮らしを好み、肩書き、地位などどうでもよい、生きることさえできればお金は余分にはいらない、大邸宅は手がかかるからいらない、おしゃれには全く関心なくて衣類の流行にも無頓着、というごつい田舎者夫婦であった。

 以上、体験の一部をありのままに記述してみた。

(二〇一六年三月六日)

北朝鮮は日本の同胞か

 日本国内には国交の開かれた韓国、中華民国(台湾)、中華人民共和国、インド、フィンランド、ドイツ、フランス、アメリカ、ブラジル、ペルーなどの国の民族学校が設置されている。どの国も民族学校数は一桁に留まっている。なのに一国だけ例外があって、それは北朝鮮だ。この国は日本との国交がないにもかかわらず、なんと七十校余りの朝鮮人学校があり、北朝鮮本国と同じ教育がなされている。これは大きな問題ではないか。朝鮮人学校に無償で土地を提供している自治体もある。国際社会から孤立しており、危険視されているような国をなぜ日本政府は厚遇するのか。おかしな話である。日本の支配者が裏でこっそりと北朝鮮と繫がっている証拠ではないか。日本政府には裏と表の二つの顔があるということか。天皇、岸信介元首相・佐藤栄元首相兄弟、安倍首相らの先祖が北朝鮮と同じ血の百済系帰化人であることと関わりがありはしないか?

(二〇一六年 二月二十九日)

現憲法が平和を導いた

二〇一五年 十一月 三十日 中日新聞「発言」掲載

 先日、日本武道館で改憲の一万人大会が開かれた。彼らが主張する中国脅威論や押し付け憲法論に対して私は反論する。いかに難題であろうとも、中国と手を携える道を探るべきだ。それが平和に繋がる。中国敵対視は亡国に繋がる。アメリカからの押し付け憲法だ、なんてとんでもない。日本国民を独裁軍国主義の明治憲法から解放し、自由、平等を与えてくれた現憲法は、当時の日本国民にとってまさに救いの神であった。改憲大会に対して私は「戦争を知らない世代が何を言うか」と大声張り上げて叱咤したい心境である。体験に勝るものはない。八十六年生きてきた私の人生の中で、眩いくらいに輝いていたのは敗戦から後の昭和時代だけであった。平成は年々右傾化が強まる一方で、確実に来た道への逆戻りが続いている。そうした中における改憲論にはどうしても危なっかしさを覚えずにおれないのだ。

戦前に逆戻りした日本

 私は戦争の恐ろしさが骨身に沁みている。九条の会から「憲法9条を守ろう」と書いたステッカーをもらったので、早速集合住宅の自分の郵便受けにそれを貼った。そうしたら、そのステッカーが×印に刃物で切られてヒラヒラになってしまった。ショック! そういえば、与党支持者が言っていた。「平和運動の名にかこつけて左翼が暴れて困る」ということはレッテル貼りで平和運動を阻止するつもりか。そういう理由づけで、平和を熱望してやまない一庶民の私の郵便受けに手を出してもよいのか。それは犯罪ではないか。政治体制に反するものを潰す目的のための網が日本の隅々まで張り巡らされ、言論弾圧の徹底が図られているとしか考えられない。かつての戦争前の日本そっくりになってしまった。近付く戦争の足音に私は怯えきっている。

(二〇一五年 十月十一日)

日本という国 ― 食い物にされた土着民族 ―

『琅』29号(編集・発行 宗内 敦)に掲載したものを一部修正・転載

    http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou_index.htm

 

世界一の日本

 何が世界一か、と言えば「日本の政府資産」である。「政府資産」とは国の財産を指す。敗戦のとき、天皇家の資産が日本一のみならず、世界王国中の一位という多額だった。日本政府は国民から搾り取って自分達の懐を肥やすことが世界一うまいということになる。いみじくも、オランダ生まれのカレル・ヴァン・ウォルフレンは言った。

「日本人は富める国の貧しい国民である」

 国に絞り立てられる不幸な日本人よ、という意味だ。

 敗戦によって日本は七年間GHQの占領下にあった。GHQは天皇家の資産解体にとどまらず、公務員制度の改革の必要を感じて、それを実行に移そうとした。ところが狡猾な大蔵省の引き延ばし戦術によってGHQ案は換骨奪胎されてしまった。政府資産世界一を作る体質は変えられることなく、七年の占領期間が終わってしまったのである。

 どのようにして政府が国民を絞り上げるか、その楽屋裏をばっちりと見せてくれたのが、元財務省勤務高橋洋一著『日本は世界一の政府資産大国』(二〇一三年刊)である。目についた目次を拾い出して見るだけで実態が推測できる。

・ 日本国の資産総額は六百二十九兆円!

・ 官僚天下り先に流れる二百兆円

・ 四十六兆円も余っていた特別会計

・ 公営ギャンブルは公務員のために

・ 毎年数兆円の埋蔵金が生まれる

・ 十二兆円も水増しされた財政赤字

・ 埋蔵金を隠す財務省のポケット

・ 役人が狙う年金準備金百兆円

 

 何といっても本文の中から拾い出した次の言葉は驚きの一語に尽きる。そこまで酷い国だったとは、ああ知らなかった。

「日本国の資産は世界一、まさに金メダル級だ。それを国民の目から隠し、自分たちだけで自由に使うことが財務省の願望である。」

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 G7各国の政府金融資産の額

(高橋洋一著『日本は世界一の政府資産大国』

                表紙カバーより)

 ところで、日本は他の点でも世界一だったものが色々ある。まず浮かぶのは長寿国であること。その理由として私は無駄な延命治療によるところもあると見ている。死にゆく人の思いなど無視した歪んだ医療体制のせいだと考える。また日本は自殺率も先進国の中では首位である。自殺大国と言われるフランスを大きく引き離して首位になったのが一九九八年。以来、断トツの首位は続いている。これは何を意味するか。国民が不幸になった証拠と言えよう。明らかに政治の貧困劣悪が招いたものではないか。独裁政治には自殺に見せかけた暗殺が含まれたりする。かつての大戦へ突入する頃の日本には言論の自由がなかった。人権無視、暗殺などざらだった。残念なことに平成のいまの日本はそれに近づいてきた。新刊書店を覗くと政情が分かる。完全な右傾になってしまった。それだけではない。

 もう一つ日本には私が声を大にして叫びたい「世界一」がある。それは国民の命を軽視する残酷さにおいてまさに世界一だったこと。あの大戦の時、世界各国が驚き恐れおののきその反面で、呆れもしたのは日本の特攻隊だった。生還不能の兵器を作り、それに自国兵を乗せて飛ばせた日本政府の非情ぶりは、他国にとって理解を超えるものだったらしい。

「どうしてあれほど非人情なことができたのか。何という国なんだ、日本は」と。

 私たち同世代が集まった時にはしばしば話題にされてきた事柄である。

「なぜ?」のその答えがようやく私に見えてきたのは最近である。キーポイントは明治維新の真相そのものの中にあった。日本の国は明治維新によって百済系朝鮮人たちにがっちりと抑え込まれてしまっていたのだ。彼らの心が冷酷なのは、単に異民族であるがためのみではなかった。征服者としての驕りを持って国民を冷遇する心が充満していたためであった。私はようやくそれに気付いた。日本を支配している百済人には支配民族としての驕りが溢れているためのやりたい放題。その結果が冒頭から幾つも並べてきた「世界一」の事相に表われていたのだ、と判断した次第である。百済民族に支配されている限り、日本の民主主義は破壊される一方だから早く手を打たねば、との焦りを覚えるのは私たち戦争体験者だけか? あの戦争の責任を取って百済民族は支配者の座を降りるべきであり、天皇制廃止がその第一歩だ。天皇ではなくて、天皇制の黒幕そのものに責任がある。

 

官僚の正体

 日本の官僚は世界一悪質なのか。

 なぜそうなってしまうのか。私が官僚体質に不審の念を起こしたのは一九九五年末娘が第Ⅰ種国家公務員試験を受けた時からだった。「なぜ?」「どうして?」「変だな」と思うことばかりの公務員採用方式だったからである。第Ⅰ種だけが奇妙だった。第Ⅱ種にしても、第Ⅲ種にしても、また、地方公務員にしても、合格すれば大方は採用になる。ところが第Ⅰ種だけは違う。合格しても不採用率が高い。まず、採用人数の倍ぐらいの合格者が出る。合格すれば三年間は各省庁を訪問して内定を取る資格が与えられる。ということは、前年度、前々年度の合格者までがライバルとなり、採用率は更に下がる。三年間かけてあちこちの省庁巡りをすればどこかへは入れそう、と思うのは甘い。ここで大きな問題にぶつかる。コネ。コネがないと採用は難しい、というのが実態だからである。コネによる人選を活かしたいから合格者を二倍にし、省庁訪問資格を三年間にしたものと考えられる。

 私の末娘は同じ試験区分の受験者一九九八人中の四番という好成績で合格を果たした。けれども結局採用は諦めざるを得なかったのである。拙著の中にこれを書いたところ、同様の体験者から出版社経由でお手紙を頂いた。あの採用法は確かに問題だ。超優秀な成績で合格した御子息がコネがないばかりに不採用。男泣きした。しかし才能を活かして別の職を得て国際的に活躍されているとの内容だった。

 これらは採用から外れた合格者のみが知る日本の異様な現実だ。

 何のためのコネか。私は直感する。百済王族の子孫を自認する天皇が象徴である日本。百済系帰化人の子孫たちで高級官僚の座を埋め尽くすために、こうした奇妙な採用方式が生まれたのだ。表向きは別の言い訳でこの方式を正当化していると推量される。

 さらに問題なのは、宮内庁が国家公務員試験とは別枠採用で、しかも天皇家同様の世襲制つまり血筋尊重であること。これは実に奇妙だ。父のあとを継いで息子も、となる。宮内庁から他の省庁へ出向したり、他の省庁から宮内庁に出向したりする。百済人は天皇制によって宮内庁のみならず、他の省庁へも影響力を及ぼしているに違いない。宮内庁と高級官僚を百済人で占めてしまえば、百済人天国である。こうして、日本の国は百済人に支配されっぱなしになっているわけだ。

 確実に、天皇制こそが百済人の天下取り手段なのである。

 

靖国の正体

 小泉純一郎元首相と安倍晋三首相の靖国参拝へのこだわりを見ると、私の心は一気に戦時中へ引き戻され、じわっと不安が広がってくる。またあの恐ろしかった時代がやってくるのではないか、と落ち着かなくなる。八十六歳の私が兄を通して知った軍人教育知識から言えば、靖国神社は明らかに日本の軍国主義の温床なのだ。中国や韓国の苛立ちは無理もない。

 三つ違いだった私の兄は中学一年修了と同時に、大阪陸軍幼年学校生となって家を出ていった。十三歳からの数年間をかけて幼年学校と士官学校を通してみっちりと受けた軍人教育は現代の若者には到底想像できそうにない厳格苛酷なものであった。彼らの生活は親許を離れての合宿生活だからたまったものではない。起床から始まって就床まで上官の監視と叱責怒声の下で走り回らねばならない。衣類や布団のたたみ方から用具の扱いに至るまですべての点で動作の機敏と整然を求められる。上官の命令は天皇の命令として絶対服従。ここには自由も平等も一切ない。すべてが一方的に監視され、支配され、命令され、強制され、抑圧のみの生活である。中でも一番大きな問題は軍人教育の柱ともいうべき死の強制であった。それは「靖国」と「天皇」の二つを柱として「死ね、死ね」の強制に終始するものであった。「天皇は神である。天皇のため、お国のために死ね。死ねば靖国に祀られ、神である天皇が礼拝下さる。日本人として最高の栄誉である」この訓示が少年たちの骨の髄まで深く叩き込まれた。卒業文集の生徒の言葉にそれがしっかり表われていた。「靖国で会おう」死を受け入れている言葉だ。「天皇は神だ」という大嘘つきの言葉に騙されて「死ね、死ね」という殺人鬼の言葉に素直に従っていった少年たちがあまりにも哀れ過ぎる。天皇制は神を名乗ったこと一つだけを見ても極めて悪質だ。なのに、それが裁かれることなく温存してきたのは危険極まりないことだった。これでは大日本帝国へ逆戻りしないはずがない。日本の若者たちは天皇制詐欺によって殺されたようなものだ。兄が受けた教育を身近に見守ってきただけに私にはよく分かる。陸軍幼年学校生は小型の軍帽と軍服に身を固め短い軍刀を腰に下げて、きびきびと歩くその姿は可愛らしくも凛々しくて魅力的だが、中身は地獄だったのである。

 難関を突破して陸軍幼年学校生になった兄を、初めのうちこそ我が家の誇りとばかり喜び合っていた母や祖母だったが、やがて、死ぬことばかり強制する教育に気づいて青ざめ始めた。「幼年学校なんか入れなければよかった。殺すために入れたようなものだ。必ず死ななければならないんだもの」「ヒロシは死ぬかなあ」と言って母が泣き、つられて祖母が泣いた。夏の夕方、縁側の隅で母と祖母がぼそぼそと語り合い、鼻水をすすり上げているので、耳を澄ませてみたらそういう声が聞こえてきた。親として耐えられない思いだったろう。

 私にしても似たような心境であった。蝉取りや魚すくいに兄の後ろをついて歩くのが楽しかった私は、兄がいなくなって寂しくてたまらなかった。晴れて鈴鹿山脈のくっきりと見える日には「兄ちゃんはあの山のずっと向こうにいるのだなあ。会いたいなあ。早く夏休みにならないかなあ」と思いながら遠い山脈を眺めた。ようやく訪れた夏休みのなんと楽しかったことよ。久しぶりに兄にくっついて、カブトムシや蝉取りをした。楽しい日は実にあっけなく過ぎてしまう。

 休暇が終わって大阪へ戻って行く兄に離れ難くて、弟と二人で勝川駅まで片道2キロを足の速い兄に遅れまいと小走りで送って行ったものである。駅に辿り着くと兄はシャキッと立ち止まり、挙手の礼をして改札口へ消えていった。思い出すことはまだある。兄こそ一番つらかったであろうと思い出されるのは、大阪へ出立という日の朝、布団にくるまったままなかなか起きようとしなかった兄の姿である。

「兄ちゃん、家から離れたくなかったんだなあ」と思うと今でも涙が滲んでくる。

 もう決して、決して、私の兄や母のような苦しみを日本国民に味わわせたくない。なのに・・・。

 安倍晋三首相は第一回目の首相の座を降りるときに言い放った。「民主主義はよくない」また、二〇一二年だったかの衆議院議員総選挙の選挙演説で街頭に立ったときの第一声は「人間には命を捨ててでも守らねばならないものがある」だった。それこそまさに軍国主義復活である。「おお、嫌だ、嫌だ。こんな人が首相になったら大日本帝国に逆戻りして、日本はお終いだ」私の心は恐怖におののいている。

 

「明治維新」という嘘と罪

 私は戦争体験の辛さから、あの戦争の責任者に対する怒りがなかなか消えない。いったい誰のせいで戦争は起こったのか、について歴史のおさらいをし、随分考えてみた。二〇一五年八月十四日に宝島社から刊行された原田伊織監修『日本近代史「明治維新」という嘘』は鋭いところを突いていて参考になった。

 ① 「明治維新」を見直さなければ日本の未来を描くことはできない。

 ② 薩長が敗れていたら、日本は侵略戦争を起こしていない。

 ③ 幕末から現代に至るまで、長州の政治家たちのDNAは脈々と受け継がれている。彼ら「長州閥」が近代日本を動かし、そして滅ぼす一因も作っていた。

 書の末尾の「現代に受け継がれる長州のDNA」と称する系図には赤枠で囲まれて伊藤博文、桂太郎、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の名が連なっている。考えてみるとこの人たちは揃いも揃って百済系帰化人の血を引いているではないか。明治維新は、藤原氏(始祖鎌足は百済王子豊璋と同一人物の説あり)に関わりある二人、伊藤博文と岩倉具視が、長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)のどちらも田布施という朝鮮人集落民たちと組んで起こしたクーデターであった。こうまで百済人ずくめとあっては、私たち世代の間で定説になっている「日本人はおとなしいが、朝鮮人は性格がきつい」が当たっていたことになりはしないか。こう考えると恐ろしくなってくる。

 重複になるがここでTHINKER著『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』136137頁から一部分をそのまま転載する。

「有力者の出身をたどると、山口県や鹿児島県の朝鮮人集落から政府内の重要なポストに就いている政治家が意外と多いのだ。例を挙げると、安倍晋三の祖父で首相の他数々の要職を務めた岸信介とその弟で三期首相を務めた佐藤栄作は、山口県の田布施村という朝鮮人集落の出身である。また小泉純一郎の父であり、防衛庁長官を務めた小泉純也は鹿児島県の田布施村という、同名の朝鮮人集落の出身である。

 しかし、なんといっても山口県の田布施村出身で注目すべき最重要人物は、明治天皇である。本名は大室寅之祐。通説では、明治天皇は幕末に若くして病死した孝明天皇の第二皇子とされているが、これには多くの疑惑がある。実のところは、孝明天皇は息子ともども長州藩に謀殺され、田布施村出身の若者大室寅之祐が明治天皇になりすましたという説がある。この学説は『明治天皇替玉説』というもので、歴史から葬られた日本の闇である。」

 

戦争の陰に必ず百済人あり

 私が恐怖を覚える政治家が揃って百済系帰化人の血を引くのは偶然ではあるまい。名を挙げてみよう。

・近衛文麿

 藤原鎌足の直系子孫。一九三七年六月に首相になり早々の七月七日に盧溝橋事件を起こし、日中戦争に突入させたのはこの人。また真珠湾攻撃の手前まで自分が首相を務め、戦争体制を推進させておいて、攻撃の五十日前にさっと身を引き、東条英機に首相の座を押し付けた。そしてアメリカへの和平交渉を始める、という抜け目のなさ。東条英機は長州人でも薩摩人でもない土着民であったため、嵌められたとの記述を読んだ記憶がある。

・森善朗元首相

 二〇〇〇年首相になった途端に「日本は天皇を中心とする神の国だ」と言ったことは有名。つまりは熱烈な神道信者イコール百済系ということか? 森善朗首相が密室で決められたことは百済系への転換の表われか? 東京オリンピックの要職に同氏が早々と名を連ねたことによって、私には日本が百済系に支配されているとの実感が強まった。

・小泉純一郎元首相と父小泉純也

 その父祖は明治維新に関わり深い鹿児島県の田布施出身。父小泉純也が防衛庁長官として在職中にベトナム戦争が起こり、アメリカに対しフレーフレーの旗を振ったことは有名。小泉純一郎元首相の在職中にはイラク戦争。父同様に積極的に協力し、アメリカに核の存在を疑うように仕向けたと言われている。

・安倍晋三首相と外祖父岸信介

 明治維新の立役者たちの出身地山口県の田布施出身一族として名の挙がっている岸信介はこの人の外祖父である。GHQが引き上げた直後の一九五二年にいち早く電波法を制定し、国民を縛り始めた佐藤栄作は岸信介の弟である。岸信介といえば安保闘争が浮かぶ。反対者たちに銃口を向けるという強硬姿勢の首相だった。平成のいま、民意を無視して採決を図ろうとする強硬姿勢は祖父岸信介になんとよく似ていることか。共に親米派であることまでが。この一族の親米の情が強固なのははぜか。彼らの祖国百済を滅亡させた唐、すなわち中国憎しの情が親米に繫がり、同盟に至ったのではないか。

 平和は武力で守れるものではない。敵をつくらないことこそ平和につながる。いまの日本に、平和を壊す要素があるとしたらそれは「嫌中」や「嫌韓」思想である。妙なことに「嫌北朝鮮」がない。なぜか。北朝鮮は日本を支配している百済人にとって同族だからだ。

 

功か罪か

 朝鮮人集落は、山口県や鹿児島県の田布施だけではなく、広く日本各地に存在している。私の住む名古屋市にもあって、中村区には朝鮮学校もある。日本全国では朝鮮学校が七十校ほど存在する。市外の知多には二つの朝鮮人集落があり、全員が神道に属して天皇制を支持しているそうな。朝鮮人集落は、明治維新より遥か昔に渡来してきた百済人たちが寄り集まってできたものと考えられる。

 国家神道というのは、古来からあった信仰の上に乗っかる形で明治政府がつくり上げたものである。例を挙げると天皇家の祖先天照大神が祀られているという伊勢神宮は明治維新以前には、「農業神社」の名で地元民に崇められている小さな社だったそうである。「天皇家の血筋」は神でも大和民族でもなくて、実際は百済系朝鮮人であったし、「明治政府の土台」をつくったのも百済系朝鮮人であった。彼らはその血筋をひた隠しにし大和民族のふりをした上に、天皇を神の子孫に仕立て上げ、赤の他人だった旧来の天皇家の血筋に繫げて万世一系を名乗り、日本土着民族をひれ伏させてしまった。挙句は、神である天皇のために死ね、死ねとばかり多くの日本国民の血を流させた。なんとも卑劣な話で、これは悪質な騙りだと私は思う。その罪は誰にあるか。追及すべきであろう。明治維新まで遡って考える必要がありはしないか。

 私の友人に、神道に属する人がいて「自分は天皇の子孫だ」と誇らしげに言う。「何天皇なの?」と訊いても、答えはなかった。朝鮮半島の百済の国が滅びたとき、日本へ亡命してきた帰化人の子孫でありながら、血筋をひた隠しにした上に、「神の子孫である天皇のために死ね」と言って多くの日本国民を死に追いやったのは詐欺罪ではないか。そういう血筋の子孫に誇る資格があるだろうか。

 本来ならば裁かれるべき戦争責任の当事者が、敗戦後も責任を負うことなく支配者であり続けてきたがために、平成のいま再び戦う国に戻ろうとしている。危うきかな、日本。どうすれば阻止できるか。

 まず策略好き戦争好きの百済系帰化人子孫には引っ込んでもらうことが絶対必要だ。明治維新を起こして天下を取ったような民族には、危なくて日本の国を任せられないからである。

 土着民族よ、賢くて勇気ある日本人になれ。そしてあなたたち土着民族の手で民主主義と平和を守り抜くのだ。

 

     

 武力では

 平和を守れない

 武力は戦争を引き起こす

 強い国ではなく

 信頼される国

 愛される国に住みたい

 なにがあっても

 戦わない国に住みたい

 すべての人間を

 大切にする国に住みたい

(二〇一五年 九月二十七日)

「百済論」の根拠

初出『未踏』69号 明田好弘 編集・発行

 

 二〇一四年四月に私は『墓標は語る』を刊行し、続いて二〇一五年六月にその第二弾として『大日本帝国復活―百済人の野望』を刊行した。そしたら、それを読んだ五十代の男性から一冊の大型雑誌が送られてきた。原田伊織監修『日本近代史「明治維新」という嘘』(宝島社二〇一五年 八月十四日刊)である。「山本文子の本と共通する内容なのに、この本からは『百済』の語が出てこない。一方、山本文子の本は百済論が中心となっている。これはどういうことか」との言葉が添えられていた。

 

『日本近代史「明治維新」という嘘』を読んで

 早速、書のページを繰ってみると作家監修の書と無学な私が書いたものでは、その内容の深さ広さは違うものの、私の持論そのままの部分があって、すっかり嬉しくなってしまった。曰く

 ① 「明治維新」を見直さなければ日本の未来を描くことはできない。

 ② 薩長が敗れていたら、日本は侵略戦争を起こしていない。

 ③ 幕末から現代に至るまで、長州の政治家たちのDNAは脈々と受け継がれている。彼ら「長州閥」が近代日本を動かし、そして滅ぼす一因も作っていた。

 私としては「DNA」を「百済精神」に置き換えれば万々歳になるのだが。そう、「DNA」とは「百済の血」を指していると思う。「長州閥DNA」としての岸信介、佐藤栄作、安倍晋三に注目させる系図でこの書が締めくくられていることには、大きな意味がある。そこに気づかねばならない。これこそ私のいう「百済論」に相当しているのだから。

 「明治維新の発起人集団の出身地が『田布施』という朝鮮人集落だから、朝鮮人であったことは確かとしても、なぜ新羅系ではなくて百済系だと断定できるのか」と書の送り主は問いかけてきた。それに対する答えを書いてみよう。

 

日本が百済である根拠

 ① いまの天皇は自らを「百済王の子孫である」と明言した。韓国に対するゆかり発言は広く知られている。

 ② 藤原鎌足は百済の国が滅びたとき、日本へ亡命してきた百済王子豊璋である。貪欲無比、策略家、支配欲抜群の藤原一族が日本の国をすっかり食い荒らしてきたことは「藤原にあらずんば人にあらず」の評に示されている。巧妙に古来天皇家の血筋を自分の血脈に入れ替えてしまった恐るべき氏族である。他国から亡命してきた王族としては、他に例のないあくどさだ。新人物往来社『歴史読本 特集 藤原一族の陰謀・大化改新の鎌足にはじまる陰謀の家』(昭和五十七年九月号)は、藤原氏の悪業を余すところなく伝えている。

 ③ 豊臣秀吉は、藤原氏の養子となることで関白の地位を得た。彼の朝鮮出兵は藤原氏にそそのかされての事であった。つまり朝鮮征伐は、かつて百済の国を奪った新羅への仇討ちだったわけである。

 ④ 朝鮮の植民地支配も、同様に百済人による仕返しだったと考えられる。韓国人の中にもその説を唱える人がある。

 ⑤ 日中戦争を起こしたのは藤原氏の直系子孫・近衛文麿であった。百済王族の子孫だからこそ、先祖の国百済を滅ぼした唐(中国)憎しの一念が、中国侵攻を実現させた。その一方で彼は米国に対しては和平交渉を行なおうとしたのである。

 ⑥ 北朝鮮が日本に対して、韓国ほどの敵意を示さないのは百済系が主流だからであろう。植民地支配時代に、日本が朝鮮の北部に開拓発展の比重をかけてきた点からも言える。日本内地と朝鮮南部からは搾り取って、朝鮮北部へ注ぎ込んだと聞いている。百済系の北朝鮮は、国家形態がかつての大日本帝国そっくりである。

 ⑦  過去に韓国の金大中が日本へ亡命し、匿われていた時期があった。そののち、韓国大統領になったこの人は百済人である。北朝鮮の金正日と握手を交わし、抱き合った姿は小泉元首相(百済系)のそれと重なって、私の記憶に焼き付いている。交流の様子をニュースで見るとき、私はそこに明らかに彼ら百済人たちの血筋へのこだわりを感じ取った。彼らはアジア盟主を目指す民族である。

 

 ここで視点を変えて、平成の現代における他国との関係を考えてみよう。いまの日本は中国や韓国からの冷たい視線が容易に和まない一方で、広島、長崎への原爆投下の恨みなどどこへやら、アメリカべったりである。かつての被害国と加害国との関係が、相手国によってこれほど大きく異なるのはどうしてか。怨念の深さと質の違いから来るのではないか。つまり、日本の為政者の中心が百済人であるため、祖国百済を奪った者への怨念が強くて中国(唐)と韓国(新羅主流)を嫌悪する、もしくは互いに嫌悪し合う、ということではないか。原爆によって日本土着民の命が奪われたことなどは、百済人の彼らにとっては比較にならない軽さなのだ。

 近衛文麿に続いて岸信介も安倍首相(共に百済系)も親米政策を取ってきたことからも、これがうかがえる。こうしたことから、私の中に「百済論」が根づいたのである。

 

真の戦争責任者を洗い出さねば。。。。

 あの戦争を起こした犯罪の根っこは「長州閥DNA」即ち「百済の血」だった。そのDNAがのさばったままの日本だから、再び戦争する国への逆走が始まったわけである。中国脅威論の生みの親は、中国を憎む「百済精神」だ。まずは「戦争犯罪人は『百済精神』」という認識が求められる。その上で日本国民の総力を結集させて、「真の戦争犯罪人『百済精神』」を裁かねば、日本の民主主義と平和を守り抜くことはできない。これは私からの命がけの警鐘である。

「天皇家の血筋が尊い」と書いた戦後生まれジャーナリストがいたが、それが話題になったとき、非常に怒った老人がいる。

「朝鮮人のくせに、神の子孫だなんて大嘘こいて日本国民を騙し、死なせたのが天皇だぞ。その罪を償いもせず、しゃあしゃあとまだそんなことを言っているのか。責任を取って天皇制は断固廃止すべきだ」

 この声は戦争で苦しんだ世代の多くから出ていることを、戦後派は知って欲しい。

 平成の現在では、日本全国に監視の網の目を張り巡らせて、天皇制反対者を潰す一方で、勲章をはじめ買収や洗脳で支持者を増やそうと躍起になっている天皇制黒幕。その卑劣さに私は強い嫌悪を覚える。

(二〇一五年 八月二十五日)

よもやま話 (2)

『琅』28号(編集・発行 宗内 敦)に掲載したものを一部修正・転載

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 また起こった霊現象

 二〇一四年十一月の亡夫の月命日のことだった。玄関に施錠して外に出た私が十数分後に戻ったとき、下駄箱の上に置かれた花瓶の真っ白が視界に入った。花瓶の梅花模様が消えた? と思ってよく見ると、クルリと後ろ向きになっていた。さらにその横に立つ男児キューピーちゃんも同じように後ろ向きではないか。それだけではない。並び立っていたはずの女児キューピーちゃんは仰向けに倒れている。

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 一体これはどうしたことか。鍵は誰にも預けていないから、入ってこれる人はいない筈の我が家である。

 この花瓶は、歌会始に同時入選のご縁で親しくなった女性からのプレゼント。キューピーちゃんは春日井の旧友が手編みの可愛らしい帽子や洋服を男児用、女児用に区別して着せて贈ってくれたものである。もう二十年ぐらい前のことだが、私との電話中にこの旧友の目前に金粉が出始めたことでいっそう友情が深まった。金粉の出現を目の当たりにしたご主人が「お前は金粉婦人だ」と驚いたそうである。こうした不思議現象は亡夫の初盆以来二十年以上も続いてきたから、もう私や末娘にとっては珍しいことではない。

「また、起こったね」

「うん、ご先祖さん今度は、何を言いたいのかな?」

「用心せよ、というメッセージだと思う。選挙の公示が迫っている今こそ、百済問題を広めるチャンス。私は自分が作ったビラを思い切り広くへばらまこうと思って張り切っているところだから。それだけに用心を怠るな。二人そろって在宅の時であっても、安易に玄関を開けてはいけないよ、という意味だと思う」

「そうだね、きっとそうだ。気をつけようね」

 この現象は私達二人に勇気を与えてくれた。とても心強く思えた。百済問題を口にするのは危険なことだけれど、めげずに頑張ろう、との思いが強まった。

「山本さんの説に納得、同感。だけど私は怖くて口に出せない。山本さんは勇気がある」

 と言う人もいるが、確かに不思議体験がなかったならば、私とて恐ろしくて書けなかっただろう。霊現象が勇気を与えてくれるからこそ、こうして書き進めることができるのだと思っている。

 

 霊に助けられた話

 キューピーちゃんと花瓶が後ろ向きになる、という異変から私は連鎖的にある体験を思い出した。霊現象そのものは亡夫の初盆の日、末娘が大学三年の時から続出してきたのだが、次に書くのは大学を卒業して四日市の三菱系会社へ専門職として就職した頃のことである。社会人になった安心感から娘は大学時代の友人と二人で年の暮れに三重県内を一泊旅行する予定を立てて楽しんでいた。そうしたときのこれは午前だったか午後だったかの記憶はないが、私の首にかけていた金の原石のペンダントがちゃりんと大きな音をたてて和式便器の中に沈んでいった。あわてて拾い上げて時間を確認したところ、きっかり六時半だった。一体これはどういうことか、と不審がっていたら、引き続きの異変が起こったのは夜六時半。

 セットしていない目覚まし時計が突然鳴り始めたので、スイッチを押して止めた。ところが五分後にまた鳴り始めた。止める。鳴る。を繰り返すので妙だな、と気づいた私は時計屋へ電話をかけてそれ以上鳴ることのないよう止め方を教えてもらって、それに従い止めのボタンをしっかりと押した。ところが、止めたことを無視して、やっぱりきっかり五分後に鳴り続けたのである。鳴っている最中に親族からの電話が入ったので、「ベル聞こえますか? おかしなことに止めても止めても五分置きに鳴るんですよ」と話し、相手が「確かに鳴ってるね」と答えたことが記憶に残っている。

 結局時計は六時半から五分間隔で八回、七時五分まで鳴ったのである。六時半。八回。一体これは何を表わすのか? 私は首を捻った。これまでの経験から言って、これも霊現象の一つに思えた。ご先祖は何を言おうとしているのだろう? 考えていてふと気づいたのが、娘が友人(女)と二人で三重県内を旅行する予定が翌週の二十八日であることだった。あっ、二十八日の旅行に関するメッセージだから八回鳴ったのだな。引き続き二回も六時半に奇妙なことが起こった、というのは「二十八日、六時半に危険が起こるから用心せよ」というメッセージではないか。そう思えてきた私は娘に伝えた。「せっかくの楽しみを止めるのは心苦しいが、どうも気に掛かるから旅行を中止して欲しい。友人には悪いけれど、事情を伝えて了解を得るように」との申し出を受けて娘が友人と電話で話し合い、二人は私の言葉に従ってくれた。

 さて、その後がどうなったかというと、実に驚くべし。娘の旅行予定先だった三重県の地で予定日だった二十八日に、娘たちが宿泊予定だった宿と一キロとは離れていない場所で夜の六時半頃に殺人事件が起こったのである。殺害されたのは若い女性だった。そのニュースを見た娘は「場所と時間からいって私たちが旅行してたら夕食のため外出していたと思う」と言った。やっぱり、ご先祖が示してくれたメッセージのお陰で、娘と友人は危険を逃れたように思えてならない。

 私自身にしてももう十年以上薬を飲まず元気いっぱいに歩き回っているのは、ご先祖の守護のお陰と思う。

 

 ご先祖がこれほどに娘と私を守ろうとしてくれるのは何故か。「我がミナモトの子孫よ、どうか二人で力を合わせて明治維新の悪業や百済民族の野望を世に広め、日本国民を百済民族の毒牙から救い出してくれ」と言ったその目的達成のために、力いっぱい私たち二人を守り助けていてくれるに違いない。私たちはそれを固く信じている。平成の日本は、言論弾圧と卑劣な策略によって民主主義が破壊されつつある。非常に危険な国家に変わってしまった。敗戦直後の民主化された昭和時代の解放感は実に嬉しかった。あの時代へ何としても、日本を戻さねばならない。私も娘もそのために命懸けで頑張っている。

 

 末娘・山本奈実が虐めに遭った話

 それは三年前、私が拙著『増補版 私の不思議な体験』を刊行した頃に起こった。四日市の会社を辞めて大学院へ進んだあと、十年ほど前から大学に勤めてきた奈実が、自分の所属する学会に関連した組織内で、天皇家の血筋の偽りを暴露したのが事の始まりだった。暴露したその日、直ちに虐めが起こった。奈実に関するでっち上げの悪評がその組織内で広められた。調べで判明した限りでは、共に一流の某大学と別の大学との二人の女性教授が疑わしかった。名誉を傷つける目的のものだったが、全部嘘っぱちであることは明らかに分かるから実害はなかったものの、不愉快極まりない出来事だった。

 その虐めに懲りて普通ならばすっかりおとなしくなるところかと思うが、霊体験を重ねてきた奈実はへこたれない。逆に意気高揚して活動力を強めてしまった。そしたら虐めの四カ月後に、今度は大学の授業に右翼の手先が潜り込んで、嫌がらせをする騒動があった。それは勤めている二つの大学で同時に起こった。十年来の勤めの中で初めての出来事だった。幸い、大学側の理解ある対応で事態は無事に収まった。ところがこれにも懲りない奈実が、歴史の偽りをはじめ、いまの政治の危機感を授業時間に表明し続けたために二〇一五年一月、とうとう来るべき時が来てしまった。大学の一つは継続更新がなされず、もう一つは天皇制の偽りを述べた行動を理由に、決定していた来年度の継続予定が打ち切られたのである。

 明らかにその筋からの弾圧の結果だと思えるから、大学に対しては何の恨みもない。逆に迷惑をかけて申し訳なかったと私は思っている。

 これからだって娘はいつどこでどんな目に遭うことやら、暗殺と策略の得意な百済系朝鮮人に支配されていることの恐ろしさが身に浸みた。これを読んで下さった人たちが、奈実のこれからの活躍ぶりを見守り続けて下さったら有難いと思う。

 

 この悔しさを私は一篇の詩にまとめてみた。ここではそのうちの一部を紹介させて頂こう。全形は別のところで公表するつもりでいることも、書き添えておく。

 

   天皇制批判をしたために 潰された人たち

   事実無根 でっち上げの

   罠にはめられ 潰された人たち

   次々と 潰された人たち

     それが他人事ではなかった

     なんとしたことか 二〇一五年一月の下旬

     無名の庶民である 私の末娘

     山本奈実までが 潰された

     天皇制批判をしたがため

     手始めは 事実無根の悪評を流され

     第二弾は 右翼の手先から嫌がらせを受け

     負けじと頑張ったがため 遂に

     仕事を奪われて 末娘の収入がゼロになった

     天皇制批判者は死ね ということか

   我が子がやられたからには

   親として 黙っておれない

   私は 日本国民の皆さんが気づくまで

   叫び続けるだろう

   天皇制は怖い 天皇制は怖い と

 

 ミナモトの子孫

 私と生活を共にし霊現象の幾つかを共に体験し、私と同じようにその身に金粉が出たことから私の百済観に共鳴するようになった奈実は、私と協調して百済系帰化人の野望を広く人々に知らしめるべく大奮闘している。幾つもの切っ掛けがあってそうなったわけだが、奈実の名前そのものの由来するところも大きい。前にも書いたことだが、再度触れたい。

 「山本奈実」を下から読むと「みなもとやま」になることに本人が気づき、「おや、よく気がついたね。そんなこと考えもせず三月七日に生まれたから付けた名前だったのに。出産予定日より三週間も延びての誕生だったのは、ご先祖の取り計らいだったのかな」と私に言わせたことをいま改めて思い出す。私の生家は血筋などまったく話題にしたこともない農家だったのが、兄のお見合い相手の父親(教師)が自発的に調べ上げて生家が源氏であることを教えてくれた。そのお陰で私は自分の血筋を知ったわけである。自分の氏名の逆さま読みが「みなもと」であると気づいた末娘はこの話に興味を持ち、私の話と沢山の歴史資料を調べて推理した結果、生家が尾張源氏の本家である可能性があると教えてくれた。尾張源氏は清和源氏の名門であり、尾張地方に勢力を張った歴史の古い家だそうな。曽祖父の名が「源三郎」であったし、それ以前も「源」か「礒」の字ののつく名前の先祖が多かったことと、地域ではお家柄と見られていることを考えると、全く当たっていないわけではなさそうに思う。

 丸に剣片喰の家紋もそれを表わしていた。家紋といえば思い出すことがある。生家の奥の部屋・納戸の鴨居に、三十五センチ角ほどのがっちりした黒っぽい箱が五個くらいだろうか、横に並んで掛けられていた。その箱はどれもくっきりと大きな丸に剣片喰が描かれていた。箱の中身は、取っ手つきの提灯だった。その提灯にも丸に剣片喰の紋がついていた。取っ手の形が少し異なるものの、それはあの時代劇に出てくる「御用だ、御用だ」の提灯を連想させた。がっちりと堅牢につくられていたその提灯を思い出した瞬間、私は思わず大きな声を出した。

「あれだ。あれこそ先祖の血筋と活動の証拠品に違いない。明治維新の農民一揆の時、指揮を取った人たちが手に手に掲げ持った提灯に違いない」

 我が直系先祖を中心(だから我が家に収納)に親族たちが同志と思われる人々の先頭に立って叫び、走り回る姿が私の脳裏にくっきりと浮かび上がってきたのである。

 提灯箱が掲げられている下の引き戸を開けると、そこには黒くて大きく横長の長持ちが置かれていた。中に客布団が入っていたことを思い出す。あの長持ちは徳川時代のお姫様の婚礼道具を連想させた。そういえば、お勝手に置かれていた古い総桐の箪笥も時代物だった。表面はつややかな焦げ茶色に塗られた板張りだったように思う。引き出し一つ一つの四隅には洒落た模様の薄い金属板が張り付いていた。引き出しは全部桐だが桐の中でも最高級の紫色でしかも分厚くてがっしりしたものだった。私が嫁ぐときに持ってきた薄くて白っぽい桐箪笥とは大違いに、古びてはいても壮重感があって立派だった。妹がお嫁に行くときにもらって行ったと聞いたように思うが。提灯の入った箱はどうなったことやら。もしも残っているならば、一個もらってきて我が家の家宝にしたい心境である。それらを思い起こすことで、私の中の先祖たちの存在感が一層に強まった。

 

 心強い同志たち

「平和を求めたかったら、百済人による日本支配をやめさせることが絶対に必要」

 という私の説にあちこちから賛同下さる人が増えてきた事がとても嬉しい。その殆どは七十代以上、つまり戦争体験者で、拙著『墓標は語る』をお読み下さった人たちであり、図書館で拙著『私の不思議な体験』を読んだことが理解の始まりとなって出版社経由のお手紙を下さった人もある。私の意見を広めることに自発的な協力を下さった人は十指に余る数となり、さらに全国各地から賛同のご意見を寄せて下さった人はその数倍に上った。

 中でも特に嬉しかったのは、神道に属する高齢女性から頂いた賛同の言葉であった。神道が天皇制の支持母体であるとしても、決して神道に属する人の全員がそうであるわけではないことの証明になって貴重である。

「天皇制タブーは体制に反する者を痛めつける独裁手段だ。

 天皇制にしがみついて得をする奴らが天皇制タブーをつくっている。

 彼らは策略家だ」

 と書いた私の文にこたえて

「その通りです。どれだけ大勢が天皇でメシを食ってるか。彼らは日本一の地主です」

 と見事な応答を見せて下さった。更に

「憲法九条は残したいが、天皇をなくしたい。象徴はやめて欲しい」

 と率直な言葉を頂いた。

「私は右翼がとっても怖いです。言葉が通じないから怖いのです」

 とおっしゃる。お言葉こそ公表させてもらったけれど、決してお名前は漏らさない。

 なかなかの有識者で、様々な業界で反体制者が片っ端から消されている日本の現状をしっかりと見据えておられ、右翼の八十パーセントは日本人ではない、との情報も得ていられる。容疑者が天皇と同じ血筋の場合、警察は活動を縛られ、情報化は不可能になる場合があると聞かされて、身の毛がよだつ思いになった。日本政府は弱い立場の日本国民を守ってくれないのか。こうしたことを書く私や末娘の身を案じて、どの人もこの人も「用心せよ、用心せよ」と警告下さる。

「恐ろしくて口に出せず歯軋り噛んでいる私たちの気持ちを、代弁下さる山本さん親子の勇気に脱帽します」

 と言われ

「ありがとう! 私と末娘がこの先どういうことになるかならないか、しっかりと見守っていて下さいね」

 とお願いしている私である。怖いからとて沈黙したら、おとなしい日本国民は虐げられる一方だ。日本人に不利な日本などあってたまるか、の思いである。私はくじけない。

 日本が百済系帰化人に支配されているとの確信を強めてくれた情報は色々あるが、中から二つほど紹介しよう。

 我が家からさほど遠くない位置に、際立って大きな邸宅に住む勲三等受賞者の家がある。その家族から直接聞かされた話である。

「日本の大学の教授陣には、朝鮮や韓国系が多いけれど、朝鮮人は頭がいいからでしょうね」

 えっ、何ですって? 思わず私の心が叫んだ。朝鮮人は頭がいい? そんな言葉を口にするのは朝鮮系の人か? そういえば勲三等までは朝鮮系に限られていると聞いたことがある。あれは本当だったのか。なぜそんな言葉が出るのか。ははーん。私の歌会始入選も朝鮮系優先の結果だと早合点しての仲間意識が言わせた言葉だな、と私は判断した。

 この会話によって「やっぱり日本は百済人の天下なんだ」との思いが私に強く植え付けられた。それにしても怪しからん話だと思い、土着民族にだって、百済人に負けない優秀な人はいるのに、百済人に蹴落とされるのだ、と反論したい心境になってしまった。

 もう一つの話は、名古屋の目抜き通りの店で働く女性から聞いた。

「この広小路通りに面した一等地が売りに出されると、たいてい朝鮮系の人に買い占められてしまうのが不思議でならなかったけれど、日本が百済系朝鮮人に支配されている、という山本さんの説から、私は初めて納得できました」

 これも大きな収穫の一つだと思っている。

 血筋優先の排他主義は、国の退化、腐敗を招くだろう。血筋や世襲によらない能力尊重の適材適所こそが国の発展に繋がると考えられる。民族にこだわらず、仲良く互いに融合、協力を図り、国民一人一人の長所を活かし合う日本でありたい。あらねばならない。

 

 三つのグラフが示すもの

 ここに三つのグラフを並べてみた。①は年間自殺者数の推移 ②は大企業の内部留保額と民間平均賃金の推移 ③は児童相談所の虐待対応件数の推移であって中日、赤旗、中日それぞれの新聞の切り抜きである。

 

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 この三つを重ね合わせることで、くっきりと見えてくるものがある。二〇〇〇年頃から民間企業に働く国民の多くが悲惨な生活を強いられるようになったこと、それと反比例して大企業の収益が増加してきたことである。経済界も政界も百済系帰化人の子孫に抑えられてしまっている、とこれまで何回も書いてきたことが、ここに見事に立証されている。

 というのは、国民の生活が犠牲にされ始めた二〇〇〇年直前あたりから、政界の百済系帰化人の子孫の動きが活発になり、森、小泉、安倍氏らが次々と首相の座に就いて現在に至っているからだ。グラフによって「百済恐るべし」が一目瞭然であろう。二〇〇八年、安倍政権になってからその傾向が強まった。この人は百済人を太らせるために首相の座に就いたように見えてしまう。日本の国が百済人に食い荒らされていく、などと思うのは私の考え過ぎであろうか?

 

 国民をも殺したかった?

 ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』は鋭い日本批判書である。日本は打ちひしがれた人々の国、日本人は富める国の貧しい国民である。よりよい人生を生きるために、あなたは日本の革新に手を貸すべきだ、というウォルフレンの的を射た見事な言葉に感嘆しきりの私である。次から次へと心を惹く言葉が続く。

 日本の市民は、官僚が日本ほど放任されている大国はないという事実に気付くべきだ。「審議会」は、日本の民主主義にとっては概して有害。官僚制に仕える召使いのような人々で構成されている。市民は、制度としての審議会そのものを、日本の民衆を裏切るものとして徹底的に攻撃しなければならない。「記者クラブ」は民主国家にはふさわしくない。記者の批判力を麻痺させてしまう。記者クラブは「審議会」と同じく、日本の権力システムに既に深く組み込まれているのだ。

 天皇にも戦争責任がある、と発言したため長崎市長は撃たれた。昭和天皇の亡くなる前頃から右翼による脅しは日本中で行われてきた。天皇の神秘性を護持しようとする日本当局に対し、反発したキリスト教徒の知識人らも電話による脅しを受けて恐怖におののいた。国民が恐怖に囚われているような国は、その将来が危うい。明治の独裁者たちは、社会的階級秩序の自分たちより低位にある同胞たちに冷淡だった。そして酷使した。その権利を誰が彼らに与えたというのか。

 ここで私は合いの手を入れたい。そうだ、そうだ。誰から与えられたものでもない。彼らは孝明天皇と睦仁親王を暗殺した血まみれのその手で権利を自分のものにしてしまったのだ。

 ウォルフレンが言うように、民主的な体制のためには必ず対立が必要であるのに、最強の立場のものが他に押し付ける決定から逃れようがない日本。その最強の立場のものとは天皇制であり、天皇制支持者たちである。

 天皇制を賛美する者にはご褒美に出世コースが与えられる。が、天皇制批判者は引きずり降ろされる。最悪の場合は暗殺される。こうして彼らの天下が続いている。それが日本の現状なのである。

 

 小山寿『電磁波の正体と恐怖』(一九九六年版)から実に色々な知識を与えられた。より多くの人々に知って頂きたくて内容を紹介する。

 携帯電話やパソコン、電子レンジその他から生じる電磁波は遺伝子を傷付ける恐れや、免疫力を低下させてウィルスや癌に対する抵抗力が失われる懸念が高まって、データが発表され始めている。欧米先進国ではかなり以前から問題視されている。なのに日本の官公庁や企業は平然たるもの。スェーデンやアメリカ各国始め先進各国が警告し続けているのに、日本の環境庁や資源エネルギー庁は無害説を唱えているが、果たして信じられるか。

 エイズ禍を招いた非加熱血液製剤。水俣病の認定論争。発電用高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故。東京都西多摩郡日の出町のゴミ処理場のデータ公開。TBS取材ビデオをオウム幹部に検閲させての放映中止。すべてが異様であった。

 欧米先進国では因果関係がはっきりしなくても、慎重を期し危険を避ける行動を取る姿勢に徹している。なのに日本は、対策を取ろうとはせず、事実をひた隠しにすることにだけ専念する。サリドマイドにしても薬害エイズにしても、小賢しい細工をして事実を隠したりしなけれは起こらなかったのに日本は三百九人のサリドマイド児が生まれてしまった。危険を予測してサリドマイド剤の輸入を絶対に許さなかったアメリカには、サリドマイド児は一人も生まれていないのだ。この違いに注目したい。

 日本の役人や企業の幹部たちは、事実をひた隠しにするばかりで、国民の健康を守ろうとの意識がない。

「欧米先進国のデータと我が国の対応がここまで食い違うと、そこには何かあると考えざるを得ない」

 と著者は言う。この著者の目のなんと鋭いことよ。

「そうだ。そこには確実に何かがある。重大な何かが。その何かを私は次のように考える。」

 と前置きして、ここから私の考えを述べてみたい。

 これは戦争体験者にしか分からないことかと思うが、あの戦争に対する日本の姿勢は極めて異様だった。それは特攻兵器。世界中の国が驚いた。片道燃料で飛び立ち必ず死なねばならない特攻隊員。国民の命をこれほど粗末にする為政者の姿勢に驚き、易々とそれに従う国民性に薄気味悪さを感じたと言われている。特攻兵器が皇族、すなわち百済人の提案によって作られたものであることにも注目したい。捕虜になることを禁止し自決を促す軍規もまた日本特有のものだった。ここで一言加えたいのが戦争当時の大日本帝国は、いまの北朝鮮にそっくりだったことである。

 こうした日本の特異性はなぜ生じたか。為政者が百済民族であること。そのため彼らは土着民族である日本国民を殺したがっている。その証拠が列記してきた内容に表れているのではないか。自分達の子々孫々に及ぶ重大問題として、よくよく考えてみて欲しい。

 

 私は警告したい!

 戦後生まれの世代が、自分の生まれていなかった時の戦争について、日本擁護論を表明するのは甚だ宜しくない。政界、学界、文壇など著名人がそれを明示すれば、国際的日本の立場が悪くなる。右傾から洗脳されたらしいそれらの言論に接する度に、私は「知ったかぶりをするな!」と一喝したくなってしまうのだ。私は超生意気婆さんだから。

 もう一つ言いたいことは、政界を始め草の根運動、平和団体、文化センターから九条の会に至るまでその中心部にスパイが送り込まれているが、一体どれだけの人が気づいていることか。民主党が無力になったのも、共産党が天皇制打倒を翻したのも、全てスパイの力によるものだった。よくよく目を凝らして見ると、平和運動家たちの中心部のどこかに必ず「天皇制賛美者」が潜んでいる。言わば平和運動が天皇制反対へ移行するのを全力で防いでいるわけだ。そのしたたかさは想像を絶する。国民がぼんやりしていると、今に独裁軍国主義の大日本帝国が再建されてしまうであろう。日本国民はまったくお人好し過ぎる。もっと賢くならねば駄目だと思う。

 

 久しぶりにビジョンが

 以上の原稿を書き終えてほっと一息ついていた三月二十九日、突然視界一面に浮かんだのは二種類のビジョン(幻影)であった(①図参照)。なんとそれは不気味な灰色ばかりで、一つ目は棒状のものに四方から取り囲まれる感じだった。次のは視界全体に円形が等間隔に散らばっていた。初めて登場した灰色。これはもう考えるまでもなく「四方八方に敵あり。用心せよ」の警告を先祖霊が発信してくれたのだと思えてしまった。形は整然としているのに、不気味な灰色。ということは、味方のふりをした敵に用心せよ、ということではなかろうか。

 それにしても過去に見てきた数々のビジョンとは、何と大きな違いであることよ。今回の灰色ビジョンについての判断材料のために、過去のビジョンについての説明を加えることにしたい。

 あれは一九九八年初夏に始まって、二〇〇〇年頃までひっきりなしに続いた。目を開いているときだったり、閉じたときだったりするが、とても美しい幻影が見えたのである。二、三日おきに繰り返し見えるときもあった。黄、赤、緑と変化していく色彩と共に光あり、透明感あり、心奪われる美しさで、形も次々と変化していった。

 目か脳に異常があるのではないか、心配になった私は内科、眼科、精神科を次々に受診したが、結果はすべて異常なしであった。「あなたの脳の感受性が鋭敏だから見えるのであって、病的なものでは決してありません」との太鼓判をもらったから、私は体験記を書くことができた。そうした美しい色調や変化に富む形状のビジョンを示されたことによって、私は霊界の存在が信じられるようになったわけだ。②図がその時のものである。ここでは色彩の表現のみにとどまり、形については省略した。

①図 今回出現したビジョン

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②図 以前出現したビジョン

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(二〇一五年 三月三十日)

よもやま話

『琅』27号(編集・発行 宗内 敦)に掲載したものを一部修正・転載

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  第一部  思い出話

 来月、私は満八十五歳になる。よくぞ八十五年も生きてきたものだ、と自分で驚いている。小学校卒業時のクラスメート(女子)は四十四人だった。そのうち私を含めた六人が同じ通学団に属し、田舎道を仲良く並んで登校したけれど、その五人はもういない。一番の早死は十代に空爆死。次が二十代で病死。三番目は六十代に病死。そして四、五番目は七十代で病死と老衰死。残るは私だけ。耳こそ遠いが元気でこの頃は杖も使わず歩き回っている。小走りなら走ることもできる。額の辺りの髪が白っぽくなってきたけれど、背筋は真っ直ぐである。小学校のクラス会では「文子さん、大きくなったねえ」と口々に言われたものである。奥手のため小学校入学時の身長百五センチ、女子の中で一番の小柄だったのが、二十歳では人並になり、七十代にはクラス会に集まった十人の中で一、二番に大きい方だった。骨量の密度が高いのは成長期にがむしゃら働き続けてきたことと関係があるのでは? 長く生きた分だけ、思うことが増えた。それをとりとめなく書き連ねてみたい。

 

少女時代の思い出

 私は、いくらかの貸付地も所有する自作農家に生まれ育った。五人兄弟の真ん中で姉兄弟妹そして、祖父母、父母と全部揃った九人家族だった。小学生の頃に母が言った言葉は忘れられない。

「上の二人、男と女と一人ずつおればいい。あとはいらん子じゃ」

 それを聞いても私は別に驚かなかった。現実に上の二人は何かにつけて大事にされていたが、我が家に限ったことではなくて、それが当時つまり大日本帝国時代の日本社会の風潮だった。「旗本の三男坊」の言葉が示すように長子が重んじられ、末っ子は可愛がられ、真ん中は労働者扱いといった形に差別されるのは珍しいことではなかった。大日本帝国は人間にも職業にも上下格差をつける愚かな国家だった。働く者を卑しい身分とする歪んだ価値観がまかり通っていた。それだけでも私は大日本帝国を嫌悪せずにおれない。

 のちに私自身が四児を育てる身になって、親の立場の大変さが実感できた。「三人子持ちは子地獄」の

(

ことわざ

)

はまさに実相だと思う。確かに三人目からが大変だ。幼稚園児を頭に三児を抱えた時の私は一人を背負い、一人の手を引き、長子の幼稚園の送迎当番をこなしてきた。食事の後お茶碗を洗っている暇もなかった。後回しになる。多忙極まりないためにイライラして怒りっぽくなる。私は実によく怒る母親だった。大変さのあまりそうなってしまったが、四人のどの子もいらん子だと思ったことはない。でなかったら四人目まで生みはしなかったから。

 子供時代に話を戻そう。八歳のとき妹が生まれたので、妹の首がすわってから歩き出すまでの間はよくおんぶのお守りをさせられた。小柄な私には赤ちゃんがずっしりと重かったし、背中におしっこが漏れてきたこともある。お守りする弟妹がいなくて身軽に縄跳びができた二人の遊び友達は、いまになってみると、まるで幸せの先取りをしたみたいに私より先に逝ってしまった。人間の幸せは、生涯を通しトータルで見なければ分からない。辛い時を経てきたからこそ、私は今がとても幸せに思えるのである。

 あれは私が九歳の初夏だったと思う。庭先いっぱいに干してあった麦穂を片付け終わった午後、疲れた体を休めようと縁側に腰掛けた。そしたら、その私を目がけて部屋の中から這い這いをして近寄ってきたのは妹である。私の背に捉まり立ちをして肩に手をかけた妹は「チィチャーネエ、ブーワ。チィチャーネエ、ブーワ」(小さい姉さん、おんぶして)とおんぶをせがんだ。首筋に柔らかく触れた小さな手の感触と、片言がなんとも可愛らしく思えた。姉でも母でも祖母でもなくて、この私を慕ってくれることがとても愛おしく思えた。だから辛くてもお守りは決して嫌ではなかった。

 昔の農家は、風呂場から数メートル以上離れた所に井戸があった。この井戸の水をバケツに汲み入れて風呂まで運び入れるのが九歳ごろから私の役目になった。小型バケツで四十回くらいを汗だくになって運んだ記憶がある。やがて体の成長に伴い、両手それぞれに大型バケツを下げて運べるようになり、運ぶのが数回に減ってずいぶん楽になった。縁側と台所と離れの雑巾がけも私の仕事だった。女学生になると同時に炊事が加わった。

 大日本帝国時代の私は工場に学徒動員される以前でも、予習、復習の家庭学習をまったくといっていいほどやったことがない。昼間の労働で疲れ果てて眠くなってしまい勉強どころではなかったからである。戦争に負けて初めて体力と時間に余裕ができて、机に向かうようになった。勉強どころではなかった私や弟と違って、末っ子の妹は台所の隅に机と椅子が置かれて、そこで勉強していたように思う。

 やがて成人して姉が嫁ぎ、兄も家庭を持った。夏休みには姉も兄も家族ぐるみで客として実家に招待されたりした。接待役を引き受けていた私も結婚。比較的家が近かったせいもあって、私たち夫婦は客扱いを受けたことは一度もないだけでなく、下男下女のように仕事の手伝いにしばしば呼びつけられた。サラリーマンとして工場で働いていた夫は一週間分の疲れを取りたい日曜なのに、私の実家から呼び出されて重いものの移動などの力仕事に応じ「俺はまるで養子扱いだなあ」とぼやいていた。

 親からこき使われるばかりで、大切に扱われた記憶がないけれど、あれは国家自体に子供を愛おしむ姿勢がなかったからだと思う。その証拠に国家は少年に対して「よく働きよく学び天皇に忠義、親に孝行を尽くせ」と奉仕の強要ばかりした。つまり大日本帝国時代の子供は大切に慈まれる存在ではなくて、大人に仕える存在だったのである。青年に対してはもっと過酷だった。「天皇のためお国のために潔く死ね」これは人道的に見ると大きな犯罪だと今になって私は思う。愛のない為政者に支配される悲劇だ。当時の青少年がいかに惨めだったか、戦後生まれの人にはとうてい理解できないだろう。戦争に負けたことによって日本は見事に変身。アメリカが持ち込んでくれた「自由」「平等」の精神は眩しいくらいに素晴らしかった。人権を尊重する政治によって女子供をはじめ下層階級が生き返った。児童憲章がつくられ、子供が大切にされる国に生まれ変わったのである。

 

私は相談員

 人さまの相談にあずかる「相談員」という仕事があるけれど、なぜか私は中年の頃から友人、知人のあの人この人によく相談を持ちかけられた。

 通りすがりに呼び止められて

「山本さん、丁度よい所で会えたわ。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけれど、家へ寄って下さらない?」

 と玄関へ招き入れられたこともある。

「私は他にも友達はいるけれど、誰よりも山本さんに聞いてもらいたい。あなたにしか打ち明け話はしない」

 と、常々言ってくれる友も何人かあった。そういう一人に

「どうして私なの?」

 と尋ねてみたら、

「あなたは他言しない人だし、一緒になって真剣に考えて下さるから」

 との言葉が返ってきた。「考えて下さるから」ですって? 考えることがここでは喜ばれている。反射的に思い出したのがPTA活動の頃に「山本さんは考え過ぎだ」と言われ、考えるのを喜ばない声があったことだ。

 我が子が小学生から中学生だった若い頃のことである。毎年決まって子が学級委員を務めるせいでクラスのPTA委員の役が毎年回ってきてしまう。気が利かなくて世話役には不向きな性格の私はこれが嫌で苦痛でならなかった。逃げたいのだが、選挙の結果だからそれが許されない。私を知らないお母さんたちが自分の子に「クラスの学級委員は誰?」と訊いてその親に票を入れてしまうためだと思う。苦痛なのには理由がある。PTA委員の活動は実に保守的だった。前年度まで引き継がれてきた慣習をそのまま守っていく。事なかれ主義で一歩もその道からはみ出ることは許されない。そういう世界だった。

 一方、私はといえば、はみ出しっ子みたいに社会に横たわる大方の慣習だの因習だのに疎ましさを感じ、それを改めることに情熱を燃やす人間なのだ。ところが世の中の人は慣習を最良として重んじる。なぜ「より良くしよう、みんなでよく考えて改めよう」としないのか。下手に意見を述べようものなら叩かれかねない世の中。PTAも例にもれず意見が活かされることはあまりない。そうした中で私が何かを言えば返ってくるのが

「山本さんは考え過ぎる。考え過ぎだ」

 という批判だった。PTA副会長に

「昔から引き継がれている流れを止めてはいけない」

 と諭されたこともある。

 私は決して出しゃばりではなくて、黙っておとなしく控えている人間だったのにどうしてか目立ってしまう。私には何か目障りな存在になりやすい要素があるということだろうか。多分そうだろうと思うようになった。

 

 その私は子育てが終わり、新聞社、保育園、商事会社と続いたパート勤務からも解放された後、自然の流れのように電話相談員になった。手始めは市の育児相談員。その経験を買われ、続いては区の「高齢者福祉相談員」。その次が「傾聴ボランティア」であった。

 福祉相談員というのは、独居ご老人対象に役所から電話器が貸与されている家へ安否を問う電話をかけるシステムである。私が関わった区では対象電話器百四十三台に対して相談員は十七名。同時に福祉会館の二台の電話器を機能させて、週二回、交代制で対応していた。

 初めてこの受話器を握った日、私が「何かお困りになっていることはありませんか?」と言ったら、横で立ち聞きしていたらしい館長がひょいと姿を現わし、「そんなこと言ったらあかん、あかん」と手を振られた。私は出過ぎてしまったらしい。

 福祉電話に関わっていて、一番印象に残ったのはシモムラというお爺さんのことである。

「ワシはいつもアンタの声を楽しみにしてるんやで」

 と言われ、声の美しくない私はヒヤリとしたけれど、私の言うことが楽しいそうだ。なんと、このシモムラさんが亡くなったのを知ったのは、相談員のうち私だけである。亡くなっても相談員には公表されず、ひっそりとその人の相談カードが取り除かれるだけのシステムになっているからだ。当番の日が来てシモムラさんにいつものように電話を掛けたところ、若い男性の声で「父は亡くなりました。葬儀を済ませたばかりです」との言葉が返ってきた。よりによって私がその報告を受けるとは。自分の死を知らせようとしたシモムラさんの強い思いが伝わってきて胸が熱くなってしまった。合掌。

 他には、電話中に「私はアンタが一番好きだわ。感じの悪い相談員もある中で」と言って私をドキッとさせたお婆さんがあった。相談員を先生と呼ぶ堅苦しい高齢者もある中でなんとも気さくな言葉だが、そこには個人プレーを求めたい雰囲気が感じられたので、公平を期するためにこの人の氏名は覚えないようにしよう、と私は心に誓った。予感は当たって、やがて「アンタに会いたいから福祉会館へ訪ねて行く」と言いだされ、慌てて「個人プレーは禁止だから」と思い留まらせた。何十人もの中の一人であっても、そうまで言ってくれる人があるのは相談員冥利に尽きる有難いことに思えた。

 自分の性に合っている気がしてずっと続けたかった電話相談であるが、やがて膝の関節を痛めて歩くのが苦痛になったため中止せざるを得なかった。そのうちに膝関節の痛みが治まって階段の昇り降りもできるまでに回復した私が、次に挑戦したのは、やはりご老人相手の傾聴ボランティアであった。これは直接高齢者の施設を訪問して憩いの時間にホールで三、三、五、五おしゃべり中の高齢者の仲間入りをする仕事である。次はどの人とお話ししようかな、とホールを見渡してみて、一人だけポツンと椅子に掛けている人の横へ自分用の椅子を移動させて話相手になったりする。

 この傾聴ボランティアの時も深い感動を与えてくれた人がある。イトウリョウゾウさん。大の読書好きで、施設に備えてある本はだいたい読み尽くしたというリョウゾウさんと長椅子に並んで座り、少しの間おしゃべりをした。話を終わるなりこの人は突然立ち上がって私に握手を求めてきた。

「今日はあなたに会えてよかった。本当によかった。嬉しい。有難う」と。

 いったい何を話したのかまったく覚えていないが、これほど強く感動し喜んでくれた人は他にいない。それっきりで二度と会っていないがお元気だろうか、イトウリョウゾウさん。

 傾聴ボランティアこそもっと続けようと思っていたのに、これを始めたことによって私は自分の耳が遠くなっていることに気付いた。ご老人の話をきちんと聞き取れない時がある。補聴器を使ってみたが、はかばかしくない。齢の割に他の人よりも早く耳が不自由になっていたらしい。原因を考えてみると、学徒動員中に会話もできない工場の騒音と埃の中で働き続けたために卒業後、健康診断に引っかかって抗結核薬ストマイを使用したことが遠因になったと考えられる。騒音も影響しただろう。まさに戦争のせいである。続けたかった傾聴ボランティアも止めねばならなくなってまことに残念だった。

 

  第二部  最近の話

 二〇一四年八月、なんともみっともない話だが、私は四人の我が子のうち中の二人を相手取って論争を始めてしまった。

 

 関西や関東に住む我が子たちが、名古屋へ帰省する八月こそチャンス。百済問題を論じようと冒頭から私は口に出していたと子らは言うけれど、自分ではその辺の記憶が定かではない。我が家は狭いからと、会席の場を決めておくように依頼してあった長子が電話で「気まずくなると困るから、百済の話はしない条件で会おう」と提案してきた。実は神社に関する批判をしたことで、すでに私と長女との間が気まずくなっていた。「お母さんはなぜ、うちの神社が悪いって言うの?」「それはこれまで私が書いてきたものを心して読んでいれば分かるはず」「お母さんの文章は説得力が無いから分からない」というようなやり取りをしたためだったように思う。

 だったら、私にとっては出席する意味がない、とばかり不参加を決めた。そんなことをいわずに・・・と言われても拒否。

 さて当日の八月十日の食事会の様子については参加した末娘が聞かせてくれた。息子までが私の文に説得力がないと言ったそうだ。我が子の二人までがそう言うのか。私は怒り心頭に発した。怒りっぽいことにかけては人後に落ちない私である。分からず屋の長女と息子をどうしてくれよう。思案して思いついたのが『琅』25号の私の文に対する幾つかの感想が載った26号の「琅への手紙」の頁を見せることだった。コピーして送った。大学教授はじめ教養ある知識人ばかりの集団が、無学な私を迎え入れて、何人もの人が批評を下さっているんだ、と見せびらかしたつもりだった。

 そしたら何と息子が赤ペンをいっぱい入れて返送してきたのである。主だった点を拾い出すと次のようになる。

 

Ⓐ 誰一人山本文子の文章を真実だとも正しいとも語っていない。読み物としては興味深いと書いているだけ。

Ⓑ 「奇抜な発想」とは書いているが、「冷静な分析」とは書いていない。

Ⓒ 「山本文子さんの『墓標は語る』を大変興味深く読みました。フィクションなのかノンフィクションなのか・・・? 時代によっては、活字が世に出ないような(皇室に関わる)内容が入っていますが、これが事実なのか?!と、驚きでした。私たちが教えられた「歴史」、実は都合のよいように刷り込まれているのかも知れない・・・と疑念が湧きます。一つの情報を鵜呑みにせず、違う角度から考えてみる大切さをこの話を読んで感じアンテナを高くしなければ、と反省しました。」

 この人もつまりは『墓標は語る』を鵜呑みにすることをも戒めているのである。

 

 こういう調子の赤ペンだった。馬鹿め。私は自分の書いたことが正しいとか真実だと認められたとは言っていないし、思ってもいない。ここでの問題はそんなことではなくて、私の文章に説得力が欠けていたならば、これだけの反応(感想)はなかっただろう、と言いたかっただけである。なのに結果は収穫ゼロどころか逆効果。これではもっと細かく自分がこれまでにどのような評価を人々から受けてきたかを示すしかない。恐らく娘も息子も初耳だろうことを。言いたいことを思い出し並べてみると自慢話めいて嫌な気分だが致し方ない。

 

① 過去に私が人々から受けてきた評価

 東海三県の朝日新聞読者グループ「いずみの会」の会員が百名をかなり超えていた昭和の全盛期に私はその会員だった。そこで私は、「いずみの中で山本さんの文章が一番説得力がある」と複数の会員から言われたり、書かれたりした。「いずみは色とりどりがよい」と題したエッセイは会員の外からまで賞賛の声をもらった。作家業の部外者からも褒められたし、何篇かが好評だった。NHKの文章教室では講師(児童文学新人賞受賞者・浜たかや氏)から受講生十数人を前にして

「この中で作家になる素質のあるのは山本さん一人だけだ」

 と言われた。その時以来の友人喜代子さんが証人である。ただし、私は別に作家を目指したわけではなくて、単にエッセイを書きたくて受講したに過ぎなかったのだが。もっと遡って小学校時代には男女合わせて七十八名クラスで、一人だけ学級新聞第1号に真っ先に載せられたのは私の作文「妹」だった。これほどあちこちから評価されたことで私は自惚れやになってしまったのだろうか。

 

② 歌会始の評価

 怒って書いているため喧嘩腰でみっともない文であるけれど、この項は息子に送った手紙文の形そのままを載せる。

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 私を舐めている証拠の一つが歌会始に入選した時の君の言葉だ。

「あんな幼稚な歌なら俺だって作れる」

 そう言った君に私は今さらながら、どうしても歌会始の時の状況を伝えたくなってしまった。

 歌会始の式典の後に、入選者と五人の選者との懇談があった。席に着くなり代表選者が真っ先に私の名を挙げて褒めてくれた。十人の入選者のうち初詠進は私だけ。他の人は何年も詠進を続けてきて一番短い人で十二年、後は二十年、四十年、と長い。これまでに作った歌の数を言えば私は百二十首くらい。一番多い人は一万何千首。他は全員が何千首。大人の中へ混じった幼稚園児だから褒められたのだ、と君は言いたいだろうが。幼稚なのは私も認める。だが幼稚でも、あれはいい歌なのだ。読むとパッと情景が浮かぶ。登場人物の心が伝わってくる。こういうのを良い歌という。それが分からん奴が貶すことになる。

「山本さんは先生からえらく褒められたね」

 と言って入選者のうち三人が私と仲良しになってくれた。長野県と滋賀県の二人は我が家へ遊びに来てくれたことがあって、今も文通が続き、『墓標は語る』も送った。二人とも共感の賛辞をくれている。宮中体験と戦争体験が理解力の基になっているのだろう。もう一人は愛知県人で父の代から短歌同人の編者をしてきて、父の遺志を継いで自分こそ入選したいと詠進を続けること二十年。二十年目にやっと入選できた人。私に手紙をくれて

「あなたのお陰で自分の作歌姿勢の誤りに気付いた。私は言葉を操ることばかり考え続けて二十年もかかってしまった。本当の歌の良さをあなたの歌によって教えられた」

 と。これほど何人もの他人様が認めてくれた私の価値を認めない人よ。分かるかい、私の気持ちが。

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③ 私は日本医学会の新記録保持者

 余談になるが、私は日本新記録を持っている。オリンピックには無縁だが、医学界の日本新記録である。全国で誰よりも小さい皮膚前癌(癌になる前の段階)を自分で発見した。そのことを私は岐阜大学病院の部長先生から評価されたのである。

「直径二ミリの前癌、こんな小さなものを自分で見つけたのは、日本であなたが初めてです。あなたは日本医学会の新記録を作った。凄いことです。」

「前癌と癌とは全く異なっており、前癌は転移しない。この時期のうちに発見するといいが、容易なことではない」

 と主治医からも言われた。

 たかが皮膚と軽視してはいけない。私の新婚時代に近所に住む人が皮膚癌で他界した。侮ると手遅れになる。百済問題だって同じである。油断していると、日本の若者たちが戦争に駆り出されて殺されてしまう。

 このように、日本人の誰よりも小さな前癌を発見できたのは、私の中に細かいことにこだわる心と目があるからであって、それは、数々の不思議体験を重ねたことによって培われたように感じる。先祖の霊が、百済の野望に気づかせ、それを打ち砕く目的のため私に与えてくれた力だろうか。

 

④ 私の百済論を裏付ける本

 金容雲『「日本イコール百済」説』という本を私が入手したのは自分が百済論をかなり書きまくった後だった。日本という国が完全に百済人に乗っ取られた事実を証明してくれるか、と期待して読み始めたが外れた。日本は昔からそうあるべくしての百済だったような書き方で、日本国民と百済人を完全に一体化させており、著者が韓国人であることが肯ける。藤原氏(百済人)に都合のよい形に書き換えられた古事記を鵜呑みに信じて書いているようだ。だが「朝鮮の植民地支配の原因は、白村江の戦の恨みだった」との説は、私と同じである。

 いまの天皇が自分は百済王の子孫であると明言された記述もあって、部分的には私の百済論の裏付けになるところもある。白村江の戦の恨みを持っているのは百済人だけであって、アイヌ人や琉球人や和人にはそんな恨みは露ほどもない。近隣国とは仲良くしたい。日本の頂点に百済人を据えていることの恐ろしさが、ここにあることを気付かねばならない。天皇も安倍首相も百済人である。百済を滅ぼした唐(中国)、新羅(韓国)との友好を百済人に求めるのは難しかろう。

 アジア全域を天皇の傘下に置こうとした百済人の野望が、あの戦争を引き起こした。いままた、安倍首相は同じ道へ戻ろうと躍起になっている。私は何度でも繰り返して言いたい。

 平和は百済問題を抜きにしたら実現しないのだ。

 

⑤ 反論者一名共鳴者多数

 私の文に対して「諸悪の根源が百済系帰化人という乱暴な史観にはとても同意できません」との反論者が一人だけあったことを私は『改訂版 墓標は語る』の中に書いた。その反論者は「不戦兵士の会」という妙な名前の平和活動集団の責任者である。ところがおかしなことに、彼の行動は九条の会の発展を妨げているとしか見えない。九条の会の責任者が彼への不信感を露わに示していたことから、私にはピーンときた。かく乱工作員の疑いありだなと思った。妨害工作はまさに百済のお手の物だから、あえて反論一名の存在を本に明記したわけだ。いつの日か尻尾を掴んだら事細かに書き、百済の性悪証拠文にするつもりである。容易に尻尾は出さないだろうけれど。でも私の考え過ぎかな?

 図書館で私の本を読んだと言う人から、時たまだが共鳴の手紙が出版社経由で送られてくることがある。少し前にも「日本が百済人に支配されているとは充分に考えられること、有り得ることです」という文を頂いた。強い共鳴は戦争体験の上に家族が国家公務員採用試験に臨んだなど、特異体験が重なった人に見られがちだ。戦後生まれでは社会科担当経験者、隠された歴史の中に真実を発見した人などである。戦争体験者がいなくなってしまったら、日本は策略家で戦争好き百済人に完全に組み敷かれてしまうのではないか。心配でならない。

 

⑥ 不思議な体験について

 私の不思議体験について息子などは私を教祖呼ばわりするが、それは当たっていない。教祖だの霊能力者だのは自分が霊的な行動を起こす。ところが私は自分から何も起こしていない。金粉をはじめ全てが受け身。誰かが起こす現象をじっと見守って、それをありのまま記述してきただけ。いったい誰が何の目的でこうした現象を起こすのか、とそればかり考え続けた。「金粉は霊界からのメッセージだ」と多くの宗教家(神道以外)が言う。その言葉を信じて、私は自分が霊界からメッセージをもらったと思っている。そのメッセージとは一体なんだろう、と長い間考え続けてきた。その答えがようやくはっきりした。先祖の霊がテレパシーを送ってくれたのだ。

「百済の野望を打ち砕け」

 ここでもう一度言おう。平和は百済問題を抜きにしたら実現しない。

 

  第三部  百済問題を論ずる

 賢明な読者はお気づきかも知れないが、決まり悪さをぐっと抑えて第一部、第二部を書いたのは、私がどんな人間であるかをより深く知って頂きたいからである。同じことを言っても、「Aが言うなら本当だろう。Bが言うなら嘘だろう」式の判断材料を提供する目的だった。Aの評価が頂けるなら、私の百済論は受け入れられる確率が高まる。それを願ってのことである。

 

民族性の違い 拙著『増補版 私の不思議な体験』から転載

 あれは対米戦争が始まった翌年、つまり一九四二年の晩秋だった。稲の刈り取られた田んぼが続く田舎道を、少女の私は歩いていた。

 少し離れた田んぼへ、数人の女性がずかずかと入っていくのが見えた。彼女たちは腰をかがめて落ち穂を拾い始めた。

 そのとき、遠くから所有者らしい農婦の大きな声が飛んで来た。

「おーい、田んぼへ入っちゃいかんぞオ」

 間髪を入れず、落ち穂拾いの集団の一人が声を張り上げた。

「田んぼぐらい何じゃ。日本は朝鮮の国を取ったじゃないか」

 私はびっくりした。その数人は朝鮮女性だったのである。何が私を驚かせたかというと、反撃する度胸のある女性を見たのは、それが初めてだったからである。

 いまでこそ朝鮮なまりの言葉を耳にすることは滅多にないが、当時は珍しくなかった。この出来事を皮切りに、その後もしばしば朝鮮系の人の強さに目を見張る出来事があった。

 その度に、私は不思議に思った。自分の身辺に、あのような強さを持つ日本人を私は知らない。きつい筈の朝鮮人の国を、こんなおとなしい日本人がどうして支配することが出来たのか。おかしいなあ、と私はどうにも不思議だった。

 親族の中に朝鮮へ移住していて、敗戦と同時に引き上げてきた一家があった。そこからも「朝鮮の人は、気が強い。日本人はおとなしい」と聞かされたことによって、私の不思議に思う心は一層に膨らんだ。

 それが今回、日本の国の支配層が実は百済からの渡来人の子孫だったと分かって、いっぺんに私の謎が解けたのである。

 自らが温かく迎え入れた、百済王族によって巧妙に乗っ取られ、滅ぼされてしまった初代天皇家のなんとお人好しだったことよ。   (以下省略)

 

神道の正体 1

 戦争に負けたことによって、日本国民は確実に幸せになった。当時を生きた一人として私は声高くそれを証言する。ところがある宗教の集会で私は驚くべき発言を耳にした。神道である。あれは数年前かもっと前だったろうか、信者である友人の熱心な勧めに負けて講演会に参加した。

 行ってみたら驚くことばかり。催し事は公共施設で開かれるのが普通だが、神道の会場は、なんと絨毯の敷き詰められた高級ホテルだった。また、参加者の服装が立派過ぎる。見渡すと服装を正した中高年の男性が過半数を占めている。普通の庶民の集まりとは違う。壇上に立つ男性の第一声がまた凄い。

「戦争に負けて日本は駄目になった。日本を再生させなければならない」

 と叫んだ。私は驚き呆れた。どう見ても戦争に負けた時はまだ生まれていなかった年代の人がそんなことを言うなんて。明らかに洗脳されている。

 靖国神社では国のために死ねる若者を養成するセミナーを開いているそうだ。年中行事らしくて、参加人員は百名。セミナーは二〇一四年の今も続いているだろうか。

 また神道は新しい歴史教科書を推奨。高校の修学旅行にはぜひ靖国参拝と遊就館見学をと強く勧めていた。

「お国のために死ねる若者を養成するセミナー」だって? それこそ軍国主義そのものではないか。神道は右傾の政治団体だったのか。戦死して靖国に祀られるのを最高の栄誉と思わせて日本の若者の命を奪ってきた奴らが復活したというわけか。神道とは百済系朝鮮人が核となった天皇制支持団体であることが明らかとなったいま、私は敵の根城を見つけた心境である。根城は神道。さらに出城があることも私は知った。それは生長の家。こちらも、友人の中に数十年来の熱心な信者がいて、縁者や友人の勧誘に全力を尽くしていた。そのしつこさに負けて再度講演会に参加した私の勘では、生長の家は神道の出城に思える。生長の家も、入信すると病気が治る、幸せになると宣伝し、天皇制を諸手を上げて礼賛している。

 神道、生長の家ともに「天皇制支持団体」であり、目指すは大日本帝国再建であろう。大日本帝国再建を目指す集団の核は百済系朝鮮民族と考えられる。共に巧みに国民を籠絡しようと大きな網を張って構えている。日本の青少年よ、騙されるな。

 神道に対しても一言いわせてもらおう。

 お国のために死ねる若者を養成するというなら、天皇と同じ血筋の百済人だけに限定してくれ。君たち百済人にとっては祖国を滅ぼした隣国(中国、韓国)との戦争に備えたくてのことだろうから。

 

神道の正体 2

 長女が親族揃って神主を副業とする家へ嫁いだだけでなく、私の兄嫁の実家も神道であった。私を神道の講演会に誘った友も神道である。それらとの交流によって私は神道の大きな特徴に気付いた。神道の人たちは血筋へのこだわりが異常に強くて家系を問題にしたがる。

 長女の結婚当初に舅に当たる人から「自分の家は足利尊氏の子孫であり天皇家の血を引く」と説明されたことが記憶に残っている。友人も自分は天皇の子孫だと言っていた。なぜこれほど血筋にこだわるのか。仏教徒の私には奇妙に思えた。

 私の生家は、血筋だの家系だのにはまったく無頓着で話題になったこともない家だった。ところが兄がお見合いをしプロポーズをした相手が神道だったため、私の家の血筋を気にした先方の父親(教師)が私の方の家系を調べ上げて「源氏だった」と仲人に報告。結婚をOKされたのである。そのことから初めて私は自分の血筋を知った。これほどまで血筋、家系にこだわる神道って一体何者だろうと私はだんだん気になってきた。

 そんな折に拙著を読んだ人たちから神道に関わる情報提供を受けた。近くでは知多半島に二つの朝鮮人集落があって、彼らの気の強さには日本人顔負けだそうで、住民はこぞって神道に属していると聞いた。日本女性との結婚は歓迎されなくて、日本女性と結婚する男性は集落を出て、神社の近くに住もうとする習性があるそうだ。

 納得、納得と私が思ったには訳がある。昔私が建てた小さな貸家は神社の参道に面しており、入居させたのが日本名を名乗る朝鮮人だった。言葉も達者なのでそうとは知らずに貸したところ、何カ月も家賃滞納を続けたまま居座ってしまった。困り果てて弁護士を立てようやく退去にはこぎつけたものの賃料は未納のままになった。近隣へ我が家の悪口を言いふらしていったそうな。町内の役を務める縁者が調べてくれたところ初めて妻は日本人だが夫の方は朝鮮人と判明したけれど近隣の人々はそれを知らない。昔のことでは母が朝鮮人詐欺に遭った。夫については同姓同名の日本名を名乗る朝鮮人に不動産を乗っ取られそうになったがため、夫は改名せざるを得なかった。どれもが、相手は日本人妻を持つ朝鮮人だった。朝鮮人集落の人たちよりも、そこを出た朝鮮人の方が悪質なのだろうか。敗戦の頃少女の私は半島なまりの中年男性から嫌がらせを受けたことがあったりして朝鮮人への恐怖感を植え付けられた。これほどまで虐められた体験を持つために、私はその加害者たちの同族が日本支配者の中心だった、ということが恐ろしくてならない。明治維新は血筋を偽ったこと、暗殺という卑劣な手段による天下取りだったことが怖い。そんな人種に支配されたままでは日本国民や周辺の国が幸せになれるとは到底考えられない。

 ヘイトスピーチ解決には、朝鮮人犯罪をなくすることが先決である。朝鮮人犯罪がある限りヘイトスピーチは続くだろう。日本名を名乗っているだけに始末が悪い。

 平成のいままた、その一族である安倍首相が大日本帝国復活を目指して暴走を始めた。見過ごせなくて、私は次の形のチラシを作ったから、早速に配布を始めるつもりである。

 

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日本のヘイトスピーチ

 と言えば、誰もが加害者は日本人としか考えないであろう。日本国民を単一民族だと思うから真相を見抜けないのだ。日本国民というのは、和人、琉球(沖縄)人、アイヌ人、新羅人かと思われる同和、加えて覆面の百済(系朝鮮)人で構成されている。まずこのことをしっかりと頭に入れたい。次に、明治維新以降の日本は覆面の百済人に完全に支配され続けてきたことを知らねばならない。

 九月一日が来る度に、私は関東大震災の朝鮮人、中国人虐殺事件を思い出す。朝鮮人が暴動を起こしたとのデマを流したのは政府の官憲自身だった。デマに触発された自警団が虐殺に走り、六千人余りの罪のない人たちが殺された。朝鮮民族もまた、新羅人、高句麗人、百済人で構成され、日本を支配している百済人にとっては祖国を滅ぼした新羅人、中国(唐)人が憎しみの対象だった。きっかけ作りの手口がまさに満州事変や日中戦争の起こし方そっくりである。つまり、その前哨戦だったわけである。

 どれもこれも日本がやった、日本人がやったと国際社会からお叱りを受けてきた。その犯人は和人の仮面を被った百済人だったのである。気が強くて、何かにつけて日本の土着民を痛めつけてきた朝鮮人(敗戦の頃は半島なまりのため識別が容易)を目の当たりにしてきたがために、私たち世代にはたやすく見抜けるのだ。百済人が日本を弱肉強食の独裁国家にしてしまった。彼らは戦争と殺人が大好きらしい。

 

明治維新以降の日本

 藤原氏と結び、明治維新を起こして天下を取ったのが、鹿児島県と山口県つまり薩長の朝鮮人集落出身者たちだった。その薩長軍団が陸海軍の礎をつくり、日本軍国主義の先達となった。日本を戦争に引きずり込んだ責任は彼らにこそある。敗戦によってしばらく鳴りを潜めていた彼ら百済人が、平成のいま復活して再び雄叫びを上げ始めた。藤原氏の祖・鎌足は白村江の戦いで指揮をとった百済王子豊璋その人であり、彼の直系子孫が、日中戦争を引き起こした近衛文麿である。

 彼らは明治維新で百済人の天皇を立てて、神道という天皇制支持団体をつくり、天皇と同じ血筋であることを誇りとする心で結びついている。睦仁親王とすり替わって明治天皇になった大室寅之祐も、岸信介(安倍首相の祖父)・佐藤栄作兄弟の父祖も、山口県の田布施という朝鮮人集落出身者だった。与えることを「布施」という。日本の土地を横取りして「田布施」と命名。山口、鹿児島の両県とも、朝鮮人集落が同じ「田布施」と名付けられたことには、深い意味がありそうだ。

 今上天皇は「韓国にゆかりを感じる」発言で、自らが百済人である意識が強いことを表わした。「勲三等までは朝鮮人が占めている」「出世コースに乗るのは、朝鮮人集落に戸籍を持つ人に限られる省庁がある」といった情報は天皇や安倍首相が百済人である以上、否定できない。明らかに百済陣営をより強固なものにするための布石が打たれつつある、ということだ。天皇制が民族差別をつくってしまったのである。百済人の殆どは日本名を使い、和人の仮面を被っているから始末が悪い。日本の国を清め、高めるためにまずは仮面を外させねばならない。嘘ごまかしのない正直な日本に変えていくための第一歩がそこにある。

 

『改訂版 墓標は語る』〈 ダウンロード版 オリジナル・製本用

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文映こと山本文子のホームページ4「日本を考える」

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山本文子『増補版 私の不思議な体験』

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2014年9月9日     (84歳)

賛同者      (46歳)

 

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秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと

 

 反対運動者宛てに拙著『改訂版 墓標は語る』の発送を始めた私は、秘密保護法反対者の組織の有無が地域によって大きく偏っていることに気づいた。長野県、沖縄県、北海道の三地区が断トツに多い。

 長野県は日本一。ここで考えた。満蒙開拓団を全国一多く送り出して悲劇を生んだのも長野県だった。これはどういうことか。長野県は日本の陸地の真ん中に位置していて、海にはまったく面していない。もしかしたら、渡来民族百済人の入り込まなかった唯一の県だったかも知れない。そのため為政者百済人から真っ先に満蒙へ追い出す対象にされてしまったのではなかろうか。

「長野県民の気質は賢くて、温かくて、素晴らしい。国家公務員の父の転勤に伴って日本各地を移り住んだその中で、長野県が一番良かった」

 と私に語ってくれたのは、賢さ抜群だった旧友である。頷ける。旧友の話に重ねて、今回の運動の激しさを見ると、私まで長野県が大好きになる。賢い土着民の代表に思えてきた。和人の中心は長野県だろうな、と。

 沖縄県もまた頼もしい人たち。琉球王国という独立国だったのが薩摩藩(百済人)によって日本に併合させられてしまったのが沖縄県である。戦争末期の住民を巻き込んだ激戦の悲劇は到底忘れることができない。守ってくれるどころか自爆を強要した日本兵たち。これは百済人の指令によって苦しめられた姿である。

 三番目の北海道。ここは嘘をつかない善良なアイヌ人たちが、明治以降和人によって痛めつけられた歴史があるが、和人を名乗ったのは百済人だと私は考える。

 明治維新の発起人(百済系朝鮮人)たちの本拠地は、言うまでもなく薩長(鹿児島県、山口県)である。明治天皇となった大室寅之祐や、安倍首相の祖父・岸信介とその弟・佐藤栄作の父祖は山口県の朝鮮人集落出身者であり、小泉元首相の父祖は鹿児島県の朝鮮人集落出身者である。鹿児島県と山口県、この二つの県は長野県とは逆に、海に面していて渡来人が上陸し、居を構えるに適した位置にある。百済人の城になって不思議はない。ここで言いたいのは、鹿児島県や山口県からは秘密保護法反対の声がまったく挙がっていないことだ(9月現在)。

 このように反対運動の区域による違いからも、私には和人、琉球人、アイヌ人対百済人の対立がまざまざと見えてくるのである。言うまでもなく、安倍首相は百済人の代表であろう。

 百済人は独特の性格のきつさに加えて、自尊他卑精神を持って他民族を支配し不幸にしてきた。狡くて好戦家の百済人にもうこれ以上支配されたくない。

 

2014年9月25     (84歳)

 

(二〇一五年 一月二十六日)

天皇制の黒幕に追われて

「別室へ来い」

 私と同居している末娘山本奈実の身に二〇一五年十一月に起こった出来事が、私に急遽転居する決意を固めさせた。以下は末娘が語ってくれたその体験談である。

 名古屋市に隣接するK市において「戦争に関するシンポジウム」が開かれ、末娘が参加した。受講希望者はまず申込用紙に住所、氏名、生年月日、電話番号から職種まで記入した申込用紙に受講料を添えて申し込む。その用紙を、ちらと覗き見た私は受講に住所氏名が必要なだけでも妙なのに、加えて誕生日から身分までとは、なぜこれほど詳しく書かせるのだろう?という疑問が頭をよぎった。後に、これが強烈な不安に繫がった。

 講習は丸一日をかけて①数人の講師による講演、②壇上における講師同士による討論、③受講者中の希望者四十人と講師を交えての交流会、の三段階で行なわれた。末娘の説明によると、このシンポジウムの主催団体は歴史が古くて何十年も続いてきた。その代表者が近年になって急死。代わって代表者になった責任者が招いたという講師は、右翼っぽく感じられたそうな。壇上討論会の席で、たまたま講師の一人が「天皇家の万世一系は怪しい」と発言したことにからみつき、「万世一系は真実だ」と強調を繰り返したのが問題の講師だった。末娘はそれに強い反発を覚えてしまった。ために自分が参加できた交流会席上で「万世一系は嘘だ」と強調する発言を繰り返したらしい。ために自民党員を名乗る男を中心に暴力団風の男(係員として立っていた)数人に取り囲まれ、恐ろしい形相で「別室へ来い」と迫られた。「嫌です。日本は民主主義国だからあなた方に従う必要はありません!」と強く言い放って、末娘は拒否した。何十人もの参加者の面前でそんなことが行なわれたとは驚きである。

 たとえ末娘の言動に非があったとしても、「別室へ来い」ではなくて、その場でその席のまま末娘に対して非を諭し、言葉で文句を言えばよいではないかと私は思う。また、末娘にも十分反論させてもらいたかった。参加者たちの面前で堂々と渡り合ってこそ民主主義国家だと言えるのに、末娘は脅しによって口を封じられてしまった。これでは「天皇制は弾圧によって継続されている」ということになりはしないか。住所、氏名、電話番号まで知られてしまっているのが恐ろしくて、私と末娘は直ちに安全を求めて転居に踏み切った。

 転居先は名古屋市の端っこに位置する防犯システムの徹底したマンションである。新聞、郵便は建物の一階玄関どまりでそこの集合郵便受けに入れられ、居住者は毎朝夕、一階まで取りに降りる。用事で来訪した人は建物の玄関で該当居住者の許可を得て、初めてエレベーターに乗ることが出来る。でないと、エレベーターや階段へは決して近づくことができない形になっている。

 

読者が味方

 移転後の整理がほぼ終わり、落ち着いたところで、段ボール一杯たまっている手紙の整理に取り掛かった。比較的新しい分を選んで目を通してみた。朝日新聞「声」欄に掲載された拙文や拙著『墓標は語る』の内容、「日本は朝鮮半島から来た百済系帰化人の子孫に天下を取られてしまっている」という私見に対する率直な感想が主である。

「山本さんの意見にまったく同感だけれど、私は恐ろしくて口に出せない。あなたは勇気がある」

「右翼(天皇制の黒幕)の八十パーセント以上は日本人ではない、と言われている。彼らは話して分かる相手ではないから、私は怖い」

 この二つの意見が、みなさん共通の柱のように感じられた。どの人もよく分かっているのだ。分かっているけれど怯えて「長いものには巻かれろ」の姿勢を貫いている。なんと歯がゆいことよ。これだから日本人の表情が暗くて自殺率が高いはずだ、と納得できる。こうした手紙の差出人に迷惑が及ぶことのないように留意したい。拙著内容に対する共感の手紙のほとんどが七十代後半以上である。しかもその多くが有識者であり、賢明な人たちだ。野党の国会議員を筆頭に、教育者や作家など文筆業が多くて啓蒙される有難い人たちである。沖縄からは日本政府に愛想を尽かして独立を望む声が伝わってきた。

『改訂版 墓標は語る』が驚くほどの好反応だったから、もっともっと贈りたいと思った。だが、刊行から一年半後の三月十一日現在、手元に余分が一冊もなくなっているので、Amazonから中古品を入手しようと考えたところ、なんと、定価五百円のが五千円から五万円という高値がついていて、我が目を疑ってしまった。これこそ、賛同下さる人たちの目一杯の支持、協力、奔走の賜物に違いない。胸が熱くなった。

「文子さーん! びーっくり! 信じられない! アマゾン見ました。五万円出しても読みたい人がいる、ということです。古書、芸術の本ではあることですが、本書(『改訂版 墓標は語る』)は内容です。今多くの人が関心を持っているのですね」

「部落民は新羅人か、という文子さんのご考察、これは凄いことです。これで成程、と分かることが出てきます」

 教えられること多く、尊敬してやまない文友からのこの言葉のなんと勿体なく、嬉しかったことよ。

 あちこちから有益な参考資料を頂いたが、天皇制反対者・住井すゑに関する文献は特に参考になった。住井すゑの『橋のない川』は多くの読者に支持された。その力こそが、強烈な天皇制反対を表明した住井すゑの身を守る盾となったことに触れて、「読者が味方になる」の箇所に線を引き「文子さんも読者が応援!」という心強い書き込みを頂いたのである。友人、知人、私を知るあらゆる人が異口同音に言ってくれたのは「文子さん(山本さん)、そんなことを書いたら命を狙われるよ」だった。書くことを止められたり、身の安全に気を配るように忠告されたりは山ほどあった。特にこの度の転居については、末娘や私の身を案じる温かいお手紙を下さった人が何人かあって、親族に劣らない愛情の深さに私は涙が滲んでくる。私と末娘の行く末を固唾を呑んで見守っていて下さる人たちに支えられて、今の私がある。こんな有様だからこそ、私は天皇制に断固反対せずにおれないのだ。

 

 その他に、拙著を読んで下さった人からの通信で特に嬉しかったのは次の二つである。

① 二百九十頁という充実ぶりの同人雑誌『宇佐文学』第55号(二〇一四年)が編集後記の中で私の言葉を取り上げていた。

「彫刻家平櫛田中の名言『六十、七十は洟(はな)たれ小僧、男盛りは百から百から』に励まされる人は多い。が、さりとて一足飛びに百歳に駆けあがるわけにはいかないから、この境地は普通の人には実感できない。

 だが、山本文子という八十四歳の主婦は、数年前に著わした『八十歳のメッセージ』で次のように述懐している。

『体力、知力の盛んな年代には、心の視力が未発達だった、と私が気づいたのは、自分が婆さんになってのことだった。六十や七十ではまだまだ。本当に物事の真髄が見えてきたのは、七十代も後半に入ってからのように感じる』

 この一文に共鳴、共感する人は多いのではないだろうか」

 共感してもらえて実に有難い。私の百済論への共鳴者が七十代後半以上に限られるのはそのせいかも知れない。加えて、戦争体験の力も大きかろう。私はこういう形で未知の人に自分の言葉が取り上げられたことをほのぼのと嬉しく思った。

 

② もう一つは詩である。教室で詩を教えているという男性から、教材として私の詩を石垣りんの詩と並べて引用させて頂きたいという申し入れがあったことだ。光栄の至りに思えて快諾。用いて下さったのは「恐ろしかった大日本帝国」と題する次の詩である。

 

天皇を元首にするって?

再び大日本帝国をつくろうというのか

私は嫌だ

あんな恐ろしい国にはもう決して住みたくない

 

女学生だった私は工場で働いた

食べる物なくて お腹ぺこぺこ

一年三百六十五日 一日も休みなく

工場で 学校で 家で

働いて 働いて 働き通した

神である天皇のために

死ね 死ね と言われて

沢山 沢山の人が死んでいった

忠君愛国 滅私奉公を求める大日本帝国には

どこを探しても 自分の幸せなど見つからなかった

あるのは不幸ばかり

不幸なのは大日本帝国国民だけではなかった

支那大陸 朝鮮半島 南方の島々の人たち

日本の敵国となった五十一か国の人たち

合わせて五千万が死んだ

空襲警報が昼間二回 夜間二回鳴り響き

防空壕へ入る気力もなくなった時

やっと戦争が終わった

 

占領した日本を見て アメリカの偉い人が驚きの声を挙げた

「日本人は働き過ぎだ 体が壊れる もっと休みなさい」

それを新聞で読んで 私は思わず涙をこぼした

なんと優しくて温かい言葉だろう

私の国 大日本帝国の偉い人たちは

「死ね 死ね」とは言ったけれど

「体が壊れる」なんて「休め」なんて

一度も言ってはくれなかった

私はもうあんな冷酷な大日本帝国の国民にはなりたくない

 

私は確かにこの目で見てきた

戦争好き大日本帝国の悪業の数々を

なのに 大日本帝国は反省しなかった

反省がない者の罪は 永久に消えない

あれほど苦しめた国民に対して

ただの一言も詫びなかった

詫びない者は 再び同じ過ちを繰り返す

日本の 戦争好き為政者を

反省させない限り 詫びさせない限り

日本国民は 再び虐げられ

アジアの平和は 再び壊されるだろう

 

 この詩を読むと思い出すことがある。戦時中、アメリカの偵察機はしばしば宣伝ビラを空から撒いた。日本政府は、チフス菌が付着していて危険だからと、それを拾うことを禁止した。だが、終戦間際にこっそりと拾った人があって、その一枚を私は読ませてもらった。チフス菌が付着している様子など全くなくて、文面は「八月十六日に名古屋の北部から犬山まで爆撃します。住民のみなさんは危険を避けて移動して下さい」という内容だった。その直前には春日井市東部に位置する鳥居松工廠が空爆を受けて、私の幼友達の同級生一人が爆死した。名古屋から北へといえば私が住む春日井市西部が含まれ、目標にされることになる。ビラを落とすアメリカが、日本政府が言うような鬼畜だとは私には到底思えなかった。日本人を殺したくないけれど、殺さねばならない辛さがそこに読み取れる気がした。死ね、死ね、と死ぬことばかり強要する日本政府と大違いではないか。どちらが温かいか、冷たいか、どちらが正義か分かるものか、という思いが頭をかすめた。安倍首相も「死ね、死ね」タイプのように思えるから恐ろしい。

 

 頂いた資料の中に澤地久枝対話集『語りつぐべきこと』(岩波書店)収録の「女たちが地球をまもる」(澤地久枝・住井すゑ対談)をコピーして送って下さったのがある。住井すゑの言葉には考えさせられる箇所が多い。

 住井すゑは農家に生まれ、農民の労働の厳しさとそれに見合わない貧しさを見つめ続けて天皇制の非を悟った。平等であるべきはずの人間に貴賤をつくる天皇制を激しく怒った。私も百姓の娘だったからよーく分かる。大日本帝国は小学生にまで働け、働けと強制した。少女の私は敗戦の日まで年三百六十五日休むことなく働き、農繁期は一日十八時間働いた。休み時間がないことと、体力の限界を越えて働かねばならないのが苦痛だった。濃尾平野の真ん中に位置する豊かな農地を耕していた我が家は小作ではなく、他家への貸し付け農地を多少持ち、小地主を兼ねた自作農家で、近隣では所有農地が多い方だった。にも拘わらず、働いても働いても豊かさを実感できなかったのは何故か。その答えが今になって、はっきりと分かった。天皇制という制度によって、百済系朝鮮人に搾取されていたためだ。

 それが敗戦によって一転。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「日本人は働き過ぎだ。身体を休めなさい」との指令が出された。それを受けて私が住む春日井市の農民の場合は月に二回、一日と十五日は田畑に出ることが禁止になった。その日は指定場所に立てられた赤旗が目印になって、一日中休息を取る習慣が始まった。この日に田畑に出る人があると、町内の全員が手伝いに走っていく規則になっていたので、厳守された。農民は身体が楽になった上に、収入にゆとりができた。私は好きな映画を友と二人でわくわくしながら観に行った。負けたからこそ、私の生活は楽しい時間を持てる人間らしいものになったのである。

 一方で、それまで世界国王中一番の金持ちだった天皇家は、GHQによってだぶつく贅肉をごっそりと削り取られた。私たち百姓は天皇家を肥やすために働かされてきたことが実感できた。真相を見抜いたGHQの眼力と、日本国民に対する温情によって、労働者と女子供は救われたと言えよう。

 

老人に酷な冠婚葬祭

 住井すゑは冠婚葬祭の形式が大嫌いで、天皇制がなければこんな馬鹿な形式はなかった、と言うが、私も同感だ。天皇が先祖を慰霊する祭事を行なうのを始め、諸行事が派手に行なわれる天皇家を真似て、民間に冠婚葬祭の習慣がつくられてしまった。虚栄心が商魂に煽られて膨らんでいった結果が、現在の冠婚葬祭の慣習である。無駄な上に、貧者に対してなんと無慈悲な慣習であることよ。私はまだ大学生の子を持つ五十代の時に夫に先立たれた。四児を育て上げた挙句の未亡人生活の中で、一年の間に極めて近い親戚二つの葬儀があって、生活費が足りなくなった年がある。夫婦揃って健在の親族たちには未亡人の私の貧しさが理解できなかったらしい。友人の中には、未亡人になったら香典の額を半額にする習慣の一族があって、私は羨ましかった。冠婚葬祭は富める者の虚栄心の捌け口になっているようだ。

 八十代後半のいまはこの一、二年の間に二つの葬儀に欠席という不義理を重ねてしまった。義姉(兄の妻)の実家と義妹(弟の妻)の実家の二つで、どちらも直接の交流は一切ない。そのため住所録に名前を載せていない。だから私には先方の家の所在地も分からない。訃報は離れ住む弟を通して伝わってきたものの、耳は遠く、足腰弱り、記憶力衰退の上、トイレの遠い場所へは出かけられない私にとって、この葬儀への出席は不可能だ。せめて弔電だけでも打ちたいと思っても、喪主の名前すら分からない。難聴だから電話で問い合わせることもできない。完全にお手上げである。二つも不義理を重ねてしまった心苦しさ。冠婚葬祭とは無縁にしてもらわないと、八十代、九十代の老人は生きていけない。「自分が死んだ時は密葬にしてくれ」と私は遺言している。

 

神社近くに住んで

 私の生家は近くに神社があったために、兄や私が親から相続した土地は神社の参道沿いや、その近くに位置していた。これが私の神道と天皇制の深い結びつきを知る材料となった。兄は貸倉庫を、私は貸家を建てたのだが、申し合わせたようにどちらも、賃料未納のまま何か月も居座ってしまう入居者たちに悩まされた。裁判になった例もある。地域の役職を務める親族が、居座り入居者の戸籍を調べてくれたところ、日本名を名乗り近隣からも日本人と見られていた人が実際は朝鮮人だった、ということが再三あった。兄の貸倉庫もまた同様長期に亘る未納を重ねたのはパチンコ業を営む朝鮮人だった。未納のまま不法入居を続けた挙句に退去していった後、警官が調べに来たのも、電話で警察から問い合わせを受けたのも共に世帯主は朝鮮人だった。なぜ、これほど朝鮮人犯罪が多いのか、というのが私にとって大きな疑問であった。

 神道に所属する全員が朝鮮民族というわけでは決してないけれど、拙著の読者からの情報では、愛知県の知多には二つの朝鮮人集落があり、住民はこぞって神道に属していて神社近くに住むことを好み、天皇制支持の母体になっていると聞いた。彼らは自分が天皇と同じ血を引くと承知し、誇りにしているという。その驕りの心が日本土着民を見下し、犯罪を起こす因となっているのだろうか。だとしたらこれも天皇制弊害の一つではないか。

 

天皇の血筋

 天皇制反対論者の住井すゑは言った。

「私は子供の時から部落の成立に疑問を持っていた。徳川幕府が作ったのなら、日本全国に平均して部落があるはずなのに、なぜ畿内に多いのか。つまり古代の天皇の権力が及んだ範囲に部落が多い。大きな枠で考えるとそうなる。小さい枠で考えると、班田収授の時に部落は土地の配分を受けていない。その時に既に差別が確立しているわけだ。だから私としては天皇との関係において部落が作られたと思う以外判断のしようがない」

 なんと鋭く細やかな思考であることよ。私の推理を加えると、明治天皇は本当は古代天皇とも孝明天皇とも赤の他人だった。部落は明治維新の結果作られたものであり、部落民は新羅系朝鮮人の可能性がある。明治維新の立役者は百済系朝鮮人であって、その百済系朝鮮人にとって新羅は祖国を滅ぼした仇、即ち永遠の敵だから、部落民として貶めたわけだ。

 祖国(百済)を滅ぼされて別の国(日本)を策略で乗っ取った百済王族たちの、性格のどぎつさがここに顕われている。百済系の天皇を頭に頂くは危うきかな、である。但し、危険なのは天皇ご自身ではない。天皇を殺してすり替えることをも辞さない黒幕(藤原と薩長)そのものが危険な存在なのである。今がいま日本はその薩長の血を引く政治家たちによって動かされている。そのために言論弾圧が強まり、大日本帝国復活の兆しがありありと見えてきた。危うきかな、危うきかな。

 

 大日本帝国のことも、百済王族による弊害も一切知らない戦後生まれの息子から、次の二つの指摘を受けたから答えたい。

① 天皇の血筋が百済系朝鮮人だからいけない、というのは血筋差別ではないか。

(答)まずは百済系帰化人の悪業ぶりを知らなければ話にならない。彼らの行動に注目せよ。明治維新を起こした薩長は百済系朝鮮人だった。百済系朝鮮人であることを隠し、大和民族のふりをした。自分たちが立てた同じ百済系朝鮮人の天皇を神の子孫だと偽った。嘘まみれのたちの悪さ。歴史や素性をごまかす為政者は信用できない。そしてつくり上げた大日本帝国そのものが百済系朝鮮人優先の血筋差別構造になってしまい、それが現代まで続いている。『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている 』(THINKER)によると、通産省内で出世コースに乗れるのは朝鮮人集落に本籍のある人に限られるという。勲一等は皇族が主体で、三等までは朝鮮人がほとんどだとの記述を読んだ記憶がある。また、図書館で拙著を読んだ、という人から出版社経由で頂いた手紙には「芸能界も北朝鮮系や韓国系が優先されていますよ」の言葉があった。天皇が百済系朝鮮人であるための弊害ばかりではないか。

 私はそうした彼らのやり方そのものを咎めているのであって、百済系朝鮮人だからいけないと言っているわけではない。日本では「朝鮮人」と言っただけで「差別をした」と怒られる。朝鮮人を朝鮮人と言うのは当然ではないか。「和人」「アイヌ人」「琉球人」という言葉が差別語でないのと同じに「朝鮮人」も差別語ではないはずだ。

② どうせ日本人は混血であって、我々にも百済の血が混じっている。だからこだわる必要はあるまい。

(答)割合が問題である。明治維新以降の、天下を取ってきた百済系朝鮮人たちは世襲制によって、百パーセントとは言わないまでも何十パーセントかの濃い血筋であろう。それに対して恐らく一般の国民は一パーセント以下に過ぎないと思う。ほんの二、三パーセントだろうものを、「私は天皇の子孫だ」と誇る人を複数知っている。それこそ血筋差別ではないか。血筋差別をつくってしまったことが天皇制の大きな弊害だ。血筋に貴賤などあってたまるか、と言いたい。

 それ以前に、日本国民全体の血筋の割合を見渡すことが必要だ。百済系朝鮮人は決して多数ではない。土着民族(琉球人、アイヌ人、大和民族)の方が圧倒的に多い、この割合で力を振るい合うのが理想ではないか。百済系朝鮮人は少数のくせに出しゃばり過ぎる。それが土着民族を不幸にしてきた。思考を深めて、百済系朝鮮人と土着民族との性格の違いにも注目したい。私たち世代では「朝鮮人はきつい。日本人はおとなしい」というのが定説になっている。朝鮮人のうち、新羅系朝鮮人は素朴、率直で日本土着民と似ているが、百済系朝鮮人はその全部とは決して思わないが、少なくとも支配者になった人物は嘘つきの上に冷酷で、大日本帝国政府がまさにズバリそのものだった。現在の北朝鮮の支配者はその言動から察するに百済系であり、韓国の指導者は新羅系が多いように感じられる。

 かつての大日本帝国も、今の北朝鮮も世界平和を脅かしている。どちらの支配者も戦争好きの百済人であることに気づかねばならない。

 

パチンコ店は北朝鮮の出先機関か

『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健)によると、韓国ではパチンコ店を法律で禁止し、完全に廃業させた。清々しいことで日本もそうあって欲しいのに、廃止を目指すのは、パチンコ店の弊害に着目している社民党一党のみである。自民、民主にはその気配がまったく見られない。パチンコ店は経営者の多くが北朝鮮系であり、彼らは与野党不問で主要政党としっかり結びついている。その収益は北朝鮮へ送金されているとの噂がある。つまり政界のほとんどが、北朝鮮系に食い荒らされている証拠ではないか。パチンコ業界のあり方一つを見ても、日本と北朝鮮の関係の深さと、北朝鮮系に支配されてしまっている実態がありありと見えてくるのである。

 

朝鮮人学校の不思議

 これも私が強くこだわっている問題である。日本国内には国交の開かれた韓国、中華民国(台湾)、中華人民共和国、インド、フィンランド、ドイツ、フランス、アメリカ、ブラジル、ペルーなどの国の民族学校が設置されている。どの国も民族学校数は一桁に留まっている。なのに一国だけ例外があって、それは北朝鮮だ。この国は日本との国交がないにもかかわらず、なんと六十校余りの朝鮮人学校があり、北朝鮮本国と同じ教育がなされている。国交のある韓国でさえ四校に過ぎないというのに、だ。さらに教育の中身が北朝鮮本国と同じである、ということは大きな問題だ。あの拉致事件に関わったのが朝鮮人学校の元教師であった。それを見逃して朝鮮人学校を存続させること自体、異常である。朝鮮人学校に無償で土地を提供している自治体があるし、二〇一六年三月五日の中日新聞によると、朝鮮学校に対しては毎年国や自治体から補助金が交付されている。二〇一六年度の名古屋市は約七百五十万円、愛知県からは千九百万円の予算が計上されている。二〇一四年度の補助金交付額は十八都道府県百二十市区で約三億七千万円であった。北朝鮮が核実験を行なったことに対して、これらの補助金交付に変化が起こるかどうか。国際社会から孤立しており、危険視されているような国をなぜ日本政府は厚遇するのか。おかしな話である。日本の支配者が裏でこっそりと北朝鮮と繫がっているのではないか。日本政府には裏と表の二つの顔があるということか。天皇、岸信介元首相・佐藤栄作元首相兄弟、安倍首相らが百済系帰化人の血を引いていることとは無関係だろうか。

(二〇一六年 三月二十七日)

「天皇制の黒幕に追われて」<ダウンロード版 オリジナル・製本用>

「天皇制の黒幕に追われて」<ダウンロード版>は次のURLからダウンロードできます。

お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。

但し、文字の書き換えは一切お断りします。

 

●四六判サイズ小冊子 オリジナル

「kuromaku_owarete.pdf」をダウンロード

 

●四六判サイズ小冊子 製本用

★印刷面が下向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

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「A4用紙裏」

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★印刷面が上向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

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「A4用紙裏」

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●製本の仕方(「四六判サイズ小冊子 製本用」を使う)

Adobe Acrobat Reader DC ver.2015.0.10.20060で「A4用紙表」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)(注)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:2ページ/枚、配置順:左から右向き、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 製本用」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「サイズ」ボタンをクリック、「合わせる」を選ぶ。詳細オプションをクリック。「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙6枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②「A4用紙裏」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んでOKボタンを押す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙6枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて12頁、13頁が内側になるようにして二つに折る。

 

●印刷の仕方2(「四六判サイズ小冊子 オリジナル」を使う)

Adobe Acrobat Reader DC ver.2015.0.10.20060で「kuromaku_owarete.pdf」を開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、お気に入り、標準設定、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)(注)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:1ページ/枚(標準)、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 オリジナル」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 オリジナル」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(表側)、開始ページ:1、終了ページ:6、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙6枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②先程のファイルを開いたまま。メニュー、ファイル、印刷、ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(裏側)、開始ページ:1、終了ページ:6、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。印刷面が下向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」にチェックを入れるが、印刷面が上向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙6枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて12頁、13頁が内側になるようにして二つに折る。

 

注:これは「A4」であっても、問題ないようである。

 

(二〇一六年 三月二十七日)

山本文子著 山本奈実編 『大日本帝国復活―百済人の野望』

山本文子著 山本奈実編 『大日本帝国復活―百済人の野望』は次のURLから全文読むことができます。

http://bunei999.cocolog-nifty.com/blog/dainihonteikoku.html

(二〇一六年月二十七日)




『大日本帝国復活―百済人の野望』(『墓標は語る』第二弾)(山本文子著 山本奈実編 ブイツーソリューション 2015622日 定価(本体600円+税)単行本(ソフトカバー): 160ページ)を自費出版しました。

Amazonから購入できます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4864763186/

 

また、全国の図書館にも寄贈しました。蔵書にして頂ける場合、貸出できるようになるまで1~2か月くらいかかるそうです。ご高覧頂ければ幸いです。

 

内容紹介:

天皇制は百済人が日本を支配し続けるための手段である。万世一系はでたらめだ。鹿島曻によれば現天皇は第八王朝の第四代で、第一代明治天皇の素性たるや、山口県田布施出身の大室寅之祐だった。THINKERによると田布施は朝鮮人集落であり、集落民が藤原氏と組んで明治維新を起こし、天皇暗殺すり替えによって支配者にのし上がったのが真相である。民意を無視し大日本帝国復活を目指している百済人の野望を阻止せねばならぬ。

(二〇一五年 七月十日)

二〇一五年の年賀状

 ふたたび戦争する国に戻ろうとする日本をどうしたら食い止めることができるか、真剣に考えねばならない中でお正月を迎えました。日本は政界、経済界、学界などあらゆる分野において、天皇と同じ血筋(百済系朝鮮帰化人)が優先採用され出世コースに乗る傾向が強まっています。いまの天皇はご自身が百済王族の子孫であると公言されました。卑劣な策略、暗殺を繰り返すことで日本を支配し続けてきた藤原氏もまた百済王族の子孫です。豊臣秀吉の朝鮮出兵は藤原氏にそそのかされてのものでした。あの時代も藤原一族しか出世できなかったので、秀吉は藤原氏の養子になることで関白の職を得て藤原氏の手足になったわけです。百済王族は庶民と違って強い百済精神を持っていると推察できます。その百済精神が同民族百済人である薩摩、長州の朝鮮集落民と組んで明治維新を起こしたのです。そして彼らは滅ぼされた祖国百済の仇討ちを次々と実現させました。日清戦争、支那事変、朝鮮の植民地支配などがそれです。いま現在も靖国参拝をめぐって中国、韓国と対立しているのは百済精神を持った百済系帰化人のせいです。神社、すなわち神道は百済人が主体となった組織であり、天皇制支持団体です。天皇制が続く限り中国、韓国に対する不穏な空気は続くであろうと考えられます。

 一人でも多くの日本国民に、この厳しい現実を知ってもらいたいがための拙文です。お読み下さってありがとうございました。

 新年がよい年となりますよう、お祈り申し上げます。

(二〇一五年 一月一日)

「隠された日本の歴史」、「秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと」配布用ビラ

■「隠された日本の歴史」、「秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと」配布用ビラ

 

下の二つの記事「隠された日本の歴史」、「秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと」の配布用ビラは次のURLからダウンロードできます。

お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。

但し、文字の書き換えは一切お断りします。

 

●ビラ1 隠された日本の歴史 (B5サイズ)

「bira1_kakusareta.pdf」をダウンロード

 

●ビラ2 秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと (B5サイズ)

「bira2_himitsu.pdf」をダウンロード

 

(二〇一四年 十一月十五日)

秘密保護法反対運動の地域差から気づいたこと

 反対運動者宛てに拙著『改訂版 墓標は語る』の発送を始めた私は、秘密保護法反対者の組織の有無が地域によって大きく偏っていることに気づいた。長野県、沖縄県、北海道の三地区が断トツに多い。

 長野県は日本一。ここで考えた。満蒙開拓団を全国一多く送り出して悲劇を生んだのも長野県だった。これはどういうことか。長野県は日本の陸地の真ん中に位置していて、海にはまったく面していない。もしかしたら、渡来民族百済人の入り込まなかった唯一の県だったかも知れない。そのため為政者百済人から真っ先に満蒙へ追い出す対象にされてしまったのではなかろうか。

「長野県民の気質は賢くて、温かくて、素晴らしい。国家公務員の父の転勤に伴って日本各地を移り住んだその中で、長野県が一番良かった」

 と私に語ってくれたのは、賢さ抜群だった旧友である。頷ける。旧友の話に重ねて、今回の運動の激しさを見ると、私まで長野県が大好きになる。賢い土着民の代表に思えてきた。和人の中心は長野県だろうな、と。

 沖縄県もまた頼もしい人たち。琉球王国という独立国だったのが薩摩藩(百済人)によって日本に併合させられてしまったのが沖縄県である。戦争末期の住民を巻き込んだ激戦の悲劇は到底忘れることができない。守ってくれるどころか自爆を強要した日本兵たち。これは百済人の指令によって苦しめられた姿である。

 三番目の北海道。ここは嘘をつかない善良なアイヌ人たちが、明治以降和人によって痛めつけられた歴史があるが、和人を名乗ったのは百済人だと私は考える。

 明治維新の発起人(百済系朝鮮人)たちの本拠地は、言うまでもなく薩長(鹿児島県、山口県)である。明治天皇となった大室寅之祐や、安倍首相の祖父・岸信介とその弟・佐藤栄作の父祖は山口県の朝鮮人集落出身者であり、小泉元首相の父祖は鹿児島県の朝鮮人集落出身者である。鹿児島県と山口県、この二つの県は長野県とは逆に、海に面していて渡来人が上陸し、居を構えるに適した位置にある。百済人の城になって不思議はない。ここで言いたいのは、鹿児島県や山口県からは秘密保護法反対の声がまったく挙がっていないことだ(9月現在)。

 このように反対運動の区域による違いからも、私には和人、琉球人、アイヌ人対百済人の対立がまざまざと見えてくるのである。言うまでもなく、安倍首相は百済人の代表であろう。

 百済人は独特の性格のきつさに加えて、自尊他卑精神を持って他民族を支配し不幸にしてきた。狡くて好戦家の百済人にもうこれ以上支配されたくない。

(二〇一四年九月二十五日) 

隠された日本の歴史

日本のヘイトスピーチ

 と言えば、誰もが加害者は日本人としか考えないであろう。日本国民を単一民族だと思うから真相を見抜けないのだ。日本国民というのは、和人、琉球(沖縄)人、アイヌ人、新羅人かと思われる同和、加えて覆面の百済(系朝鮮)人で構成されている。まずこのことをしっかりと頭に入れたい。次に、明治維新以降の日本は覆面の百済人に完全に支配され続けてきたことを知らねばならない。

 九月一日が来る度に、私は関東大震災の朝鮮人、中国人虐殺事件を思い出す。朝鮮人が暴動を起こしたとのデマを流したのは政府の官憲自身だった。デマに触発された自警団が虐殺に走り、六千人余りの罪のない人たちが殺された。朝鮮民族もまた、新羅人、高句麗人、百済人で構成され、日本を支配している百済人にとっては祖国を滅ぼした新羅人、中国(唐)人が憎しみの対象だった。きっかけ作りの手口がまさに満州事変や日中戦争の起こし方そっくりである。つまり、その前哨戦だったわけである。

 どれもこれも日本がやった、日本人がやったと国際社会からお叱りを受けてきた。その犯人は和人の仮面を被った百済人だったのである。気が強くて、何かにつけて日本の土着民を痛めつけてきた朝鮮人(敗戦の頃は半島なまりのため識別が容易)を目の当たりにしてきたがために、私たち世代にはたやすく見抜けるのだ。百済人が日本を弱肉強食の独裁国家にしてしまった。彼らは戦争と殺人が大好きらしい。

明治維新以降の日本

 藤原氏と結び、明治維新を起こして天下を取ったのが、鹿児島県と山口県つまり薩長の朝鮮人集落出身者たちだった。その薩長軍団が陸海軍の礎をつくり、日本軍国主義の先達となった。日本を戦争に引きずり込んだ責任は彼らにこそある。敗戦によってしばらく鳴りを潜めていた彼ら百済人が、平成のいま復活して再び雄叫びを上げ始めた。藤原氏の祖・鎌足は白村江の戦いで指揮をとった百済王子豊璋その人であり、彼の直系子孫が、日中戦争を引き起こした近衛文麿である。

 彼らは明治維新で百済人の天皇を立てて、神道という天皇制支持団体をつくり、天皇と同じ血筋であることを誇りとする心で結びついている。睦仁親王とすり替わって明治天皇になった大室寅之祐も、岸信介(安倍首相の祖父)・佐藤栄作兄弟の父祖も、山口県の田布施という朝鮮人集落出身者だった。与えることを「布施」という。日本の土地を横取りして「田布施」と命名。山口、鹿児島の両県とも、朝鮮人集落が同じ「田布施」と名付けられたことには、深い意味がありそうだ。

 今上天皇は「韓国にゆかりを感じる」発言で、自らが百済人である意識が強いことを表わした。「勲三等までは朝鮮人が占めている」「出世コースに乗るのは、朝鮮人集落に戸籍を持つ人に限られる省庁がある」といった情報は天皇や安倍首相が百済人である以上、否定できない。明らかに百済陣営をより強固なものにするための布石が打たれつつある、ということだ。天皇制が民族差別をつくってしまったのである。百済人の殆どは日本名を使い、和人の仮面を被っているから始末が悪い。日本の国を清め、高めるためにまずは仮面を外させねばならない。嘘ごまかしのない正直な日本に変えていくための第一歩がそこにある。

(二〇一四年九月九日)

『改訂版 墓標は語る』<ダウンロード版 オリジナル・製本用>

■『改訂版 墓標は語る』<ダウンロード版 オリジナル・製本用>

 

『改訂版 墓標は語る―戦争の原因糾明こそ不戦につながるのだ』(山本文子 ブイツーソリューション 201499日 定価(本体500円+税))を自費出版しました。

Amazonから購入できます。

 

http://www.amazon.co.jp/dp/4864762414/

 

内容紹介:

これは暴露本。明治維新は百済人による天下取りだった。六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が唐(中国)と新羅(韓国)によって滅ぼされ、一万人近い百済人が日本へ亡命してきた。非常に性格がきつく、戦争好きで天下取りばかり考える彼らは、暗殺と陰謀により明治以降の日本の支配者となった。中国侵略、朝鮮の植民地支配は唐や新羅に対する百済人の仇討ちだった。唐憎し、新羅憎しの彼らにアジアの平和は守れない。

 

『改訂版 墓標は語る』<ダウンロード版>は次のURLからダウンロードできます。

お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。

但し、文字の書き換えは一切お断りします。

 

●四六判サイズ小冊子 オリジナル

「kai_bohyou.pdf」をダウンロード

 

●四六判サイズ小冊子 製本用

★印刷面が下向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

「kai_bohyou_omote.pdf」をダウンロード

「A4用紙裏」

「kai_bohyou_ura.pdf」をダウンロード

★印刷面が上向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

「kai_bohyou_omote.pdf」をダウンロード

「A4用紙裏」

「kai_bohyou_ura_insatuue.pdf」をダウンロード

 

●製本の仕方(「四六判サイズ小冊子 製本用」を使う)

Adobe Reader ver.11.0.06で「A4用紙表」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:2ページ/枚、配置順:左から右向き、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 製本用」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「サイズ」ボタンをクリック、印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙26枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②「A4用紙裏」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んでOKボタンを押す。ページサイズ処理の「サイズ」ボタンをクリック、印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙26枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて52頁、53頁が内側になるようにして二つに折る。

 

●製本の仕方2(「四六判サイズ小冊子 オリジナル」を使う)

Adobe Reader ver.11.0.06で「kai_bohyou.pdf」を開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、お気に入り、標準設定、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:1ページ/枚(標準)、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 オリジナル」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 オリジナル」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(表側)、開始ページ:1、終了ページ:26、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙26枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②先程のファイルを開いたまま。メニュー、ファイル、印刷、ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(裏側)、開始ページ:1、終了ページ:26、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。印刷面が下向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」にチェックを入れるが、印刷面が上向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙26枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて52頁、53頁が内側になるようにして二つに折る。

二〇一四年 九月九日

 

 

 

■『墓標は語る』<ダウンロード版 オリジナル・製本用>

 

『墓標は語る―戦争の原因糾明こそ不戦につながるのだ』(山本文子 ブイツーソリューション 2014430日 定価(本体500円+税))を自費出版しました。

Amazonから購入できます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4864762031/

 

内容紹介:

戦争を起こさないためには、あの戦争がなぜ起こったかに焦点を当てて考えてみる必要がある。原因を知ることによって、初めて戦争を食い止める具体的な知恵が出てくるのだ。これまで戦争の原因はひた隠しにされてきた。なぜ隠すか。ここに深いそして重大な意味が秘められている。戦争を食い止めたい人たちに、ぜひとも読んで、そして考えて頂きたい一冊。

 

『墓標は語る』<ダウンロード版>は次のURLからダウンロードできます。

お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。

但し、文字の書き換えは一切お断りします。

 

●四六判サイズ小冊子 オリジナル

「bohyou.pdf」をダウンロード

 

●四六判サイズ小冊子 製本用

★印刷面が下向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

「bohyou_omote.pdf」をダウンロード

「A4用紙裏」

「bohyou_ura.pdf」をダウンロード

★印刷面が上向きになって出てくるプリンター用

「A4用紙表」

「bohyou_omote.pdf」をダウンロード

「A4用紙裏」

「bohyou_ura_insatuue.pdf」をダウンロード

 

●製本の仕方(「四六判サイズ小冊子 製本用」を使う)

Adobe Reader ver.11.0.06で「A4用紙表」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:2ページ/枚、配置順:左から右向き、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 製本用」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「サイズ」ボタンをクリック、印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙24枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②「A4用紙裏」のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、お気に入りの「小冊子 製本用」を選んでOKボタンを押す。ページサイズ処理の「サイズ」ボタンをクリック、印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙24枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて48頁、49頁が内側になるようにして二つに折る。

 

●製本の仕方2(「四六判サイズ小冊子 オリジナル」を使う)

Adobe Reader ver.11.0.06で「bohyou.pdf」を開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、お気に入り、標準設定、原稿サイズ:ユーザ定義(名称固定)、出力用紙サイズ:A4、印刷の向き:縦、ページレイアウト:1ページ/枚(標準)、ページオプション、ページ枠、一重枠、OK、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子 オリジナル」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子 オリジナル」を選んで使う)。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(表側)、開始ページ:1、終了ページ:24、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙24枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②先程のファイルを開いたまま。メニュー、ファイル、印刷、ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(裏側)、開始ページ:1、終了ページ:24、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。印刷面が下向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」にチェックを入れるが、印刷面が上向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙24枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて48頁、49頁が内側になるようにして二つに折る。

二〇一四年 四月三十日

山本文子 『改訂版 墓標は語る』

山本文子 『改訂版 墓標は語る』は次のURLから全文読むことができます。

http://bunei999.cocolog-nifty.com/blog/kaitei_bohyou.html

(二〇一四年 九月九日)

「秘密保護法」によせて

「秘密保護法」成立。本当に恐ろしい日本になりました。

 あれは、政界のトップ自身が知られたら困る大きな秘密を抱えているがために生まれた発想ではないでしょうか。ひょんなことから、その秘密を知ってしまった私にはそう思えるのですが。

 ご一緒に考えて頂きたくて、小冊子を作りました。
 次のURLからダウンロードできます。
 お気持ちのある方はご自由に印刷、配布ください。
 但し、文字の書き換えは一切お断りします。


●A5サイズ小冊子 頁順通り

「syousassi.pdf」をダウンロード

 

●A5サイズ小冊子 製本用

★印刷面が下向きになって出てくるプリンター用

A4用紙表

「syousassi_A4_omote.pdf」をダウンロード 

A4用紙裏

「syousassi_A4_ura.pdf」をダウンロード

★印刷面が上向きになって出てくるプリンター用

A4用紙表

「syousassi_A4_omote.pdf」をダウンロード 

A4用紙裏

「syousassi_A4_ura_insatuue.pdf」をダウンロード (2014/02/03 13:48修正)

 

●製本の仕方●

Adobe Reader ver.11.0.06でA4用紙表のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、原稿サイズ:A4、出力用紙サイズ:原稿サイズと同じ、印刷の向き:縦、ページレイアウト:2ページ/枚、配置順:左から右向き、お気に入りの追加ボタン、名称に「小冊子」と入力してOKボタンを押す(次回から、お気に入りの「小冊子」を選んで使う)。OKボタンを押す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙16枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②A4用紙裏のpdfファイルを開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、お気に入りの「小冊子」を選んでOKボタンを押す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙16枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて30頁、31頁が内側になるようにして二つに折る。


●製本の仕方2(Adobe Readerの便利な機能を使う)

Adobe Reader ver.11.0.06で「syousassi.pdf」を開く。メニュー、ファイル、印刷、プロパティボタン、ページ設定タブ、「標準に戻す」ボタンを押して、原稿サイズ:A4、出力用紙サイズ:原稿サイズと同じ、印刷の向き:縦、ページレイアウト:1ページ/枚となったことを確認する。OKボタンを押す。ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(表側)、開始ページ:1、終了ページ:16、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。出力されたA4用紙16枚をそのまま順番を変えずに、白い裏面に印刷されるように、上下を間違えないようにプリンターにセットする。

②先程のファイルを開いたまま。メニュー、ファイル、印刷、ページサイズ処理の「小冊子」ボタンをクリック、小冊子の印刷方法:片面で印刷(裏側)、開始ページ:1、終了ページ:16、綴じ方:右、向き:縦。詳細オプションをクリック。印刷面が下向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」にチェックを入れるが、印刷面が上向きになって出てくるプリンターは、「逆順に印刷」のチェックを外す。印刷ボタンを押す。

③先程両面を印刷したA4用紙16枚がA5サイズの冊子になるように、真ん中の二等分線上を中とじ製本用ステープラー(ホッチキス)で二個所綴じて30頁、31頁が内側になるようにして二つに折る。

(二〇一四年 二月一日)

大和民族は二重の被害者だった

                   『ちば文学』(編集 ちば文学会・発行 文化芸術村の会)

                    第12号に掲載したものを一部修正・転載

 

 現在日本は中国、韓国、北朝鮮との関係がうまくいっていない。円満な関係を築くためには思いきり深く問題を掘り下げて考えなければならない。その意味から私はあえてこの問題を取り上げた。在日朝鮮人、在日韓国人および帰化人を敵対視するつもりはなくて、逆に対等、円満な関係が築かれることを願ってこの文を書く。だが、内容から言ってどうしても言葉が厳しくなってしまうであろうことを心苦しく思う。

 

私が朝鮮人から受けた被害

 日本は一九一〇年から一九四五年までの三十余年の間、朝鮮を植民地支配してきた。その恨みからの仕打ちだと思い込んでいたが、敗戦直後に少女の私は半島訛りの大人から嫌がらせを受けたことがある。交通難の時代で、バス待ちの長い行列に並んでいた私は割り込み呼ばわりされ、列から弾き出されてしまった。前後に並んでいる人達が事実無根であることを知っていて、そっと助け船を出して私を列に戻してくれたが。別の時に別のところで全く同じ形の虐めを受けた女性が他にもいたので、あれは朝鮮流の虐めだろうか、と話し合った次第である。

 中高年時代には別の形の被害を受けた。自分の所有していた小さな貸家に、日本名を名乗り言葉も達者だったから入居させたのが朝鮮人だった。賃料滞納を続けたまま半年ほど居座わられ、挙句に近所に我が家の悪口を言い触らされた。「実にいやらしい大家だ」と。当方としてはただ滞納分の支払いを請求したに過ぎないのに。弁護士を立てて退去にはこぎつけたものの、滞納分は未収のままになった。私だけでなく、母所有の貸家も滞納問題で同様の苦労をした。これも日本名だから知らなかったが、後で町内の役員を務める縁者が調べて教えてくれたところによると、こちらも朝鮮人だったのである。

 まだある。日本名を名乗る朝鮮人によって我が家は迷惑を被ったことが。我が土地から一軒置いた隣の住宅を購入して朝鮮人が引っ越してきた。これまでの例とは逆にこの人は「李」の表札を掲げて近隣との交流にも朝鮮名を名乗り、堂々と朝鮮人であることを示していた。ところが交流とは別に、彼は所有資産の登記は日本名を使っていた。なんとそれが私の夫と一字も違わない全くの同姓同名だったのである。そのために我が家は異様な事態に巻き込まれてしまった。まず我が家は宅地の固定資産税を確実に納入したのに、その督促状が役所から送られてきた。次は我が宅地がいつの間にやら転居してきた同姓同名の朝鮮人所有に変わってしまった。そんな馬鹿なと思って市役所に異議申し立てをしたら、妙なことに、言葉の申し出だけであっさりとすぐに訂正されて元に戻った。どこでどうなってのことなのか。どうにも腑に落ちない。

 あまりの事に往生しきった夫は、致し方なく家庭裁判所へ申し出て改名の手続きを取った。裁判官は「本当はあちらが改名してくれるといいのですがねえ」と言いながら改名許可を与えてくれた。夫にとって親がつけてくれて何十年も馴染んできた名前を変えるのは苦痛だったろう。効あって改名したら何事も起こらなくなった。なぜあんな簡単に土地の登録が動くのか。他人のものにされたり、また取り戻せたり。捺印とか署名もせずに口頭だけで動いたのは不思議でならない。どこかに何かの陰謀があったということだろうか。

 姓名に関してはまだある。私が貸家を建てるために農協から借金をして、その借金を何年もかかって返済し終わったときのことである。借金を申し込むときに農協への出資が義務付けられて資金を収めた。そのお金を返却してもらうための手続きを済ませたが、お金はすぐには出せない、まず債券を預かるという。いぶかりながら債券を手渡した。それっきりで何か月経っても連絡が来ない。請求の電話をかけたところ、既に同姓同名の人に返却金を渡したと言う。「えっ」という驚きだ。関係のない人が黙って受け取ってしまったなんて、到底信じられない。公的機関に関するごまかしは他にもあったが、既刊拙著『増補版 私の不思議な体験』に書いたのでここでは省略する。公的機関といえども実にずさんで信用できない、ということを私は骨身に徹して悟った。

 私は朝鮮人の不正に対しては植民地支配の恨みがそうさせたものと判断して、これまでは咎める気持ちなど抱いたことはなかった。仕方がない、と思って許し、人にも話さなかった。なお、朝鮮人以外からは、これほどに酷い目に遭わされた記憶はない。親切を受けたことは何回もあるが。

 

朝鮮を植民地支配したのは百済系帰化人だった

 近年になって、朝鮮を植民地支配したのは大和民族ではなかった、という事実を私は知った。暗殺、策略という卑劣な手段によって明治維新以降の日本は、百済系朝鮮民族帰化人の子孫が支配者にのし上がっていたのだ。植民地支配はその彼らが中心になっての仕業だった。そうと分かったら私の気持ちが一転、強烈な怒りが込み上げ、煮えくり返る思いになってしまった。まず、日本国の象徴である天皇からして百済系帰化人の子孫であったとは。さらに政界、財界ともにその中心となっているのが、百済系帰化人の子孫だというではないか。日本の国は完全に百済系帰化人の支配下にあったし、今もある、というわけか。となると、朝鮮人の不正は植民地支配の恨みというよりも、日本人を見下す気持ちからのものだったか。それとも元々そういう悪どい性格の民族なのか。いやまさか、民族の皆々がそうということはあるまい。真面目で温かくて優しい人の数の方が圧倒的に多いであろう。しかし、たとえ一部のせいだとしてもこんな馬鹿な。土着民族が渡来民族から一方的にやられっ放しなんて。しかも被害を受けるばかりの上に、やりたい放題の彼らの罪は全部土着民族におっ被せられるとは、あまりに酷すぎるではないか。

 戦争責任を大和民族におっ被せられてしまったが、今後は戦争責任を論ずるのに、土着民族と渡来民族を切り離して考えてもらいたいものだ。ひっくるめて「日本がやった。日本人がやった」という言い方は金輪際止めてもらわないことには、大和民族の立つ瀬がない。

 私たち世代は誰もが植民地支配時代の朝鮮人に接した経験を持つ。当時は今と違って朝鮮人の言葉に独特の訛りがあるから確実に識別できた。日本人の中には、彼らから何らかの被害を受けた体験を持つ人が珍しくない。「日本人はおとなしいけど、朝鮮人はきつい」という言葉をよく耳にした。私もこの人たちも虐めの加害者になったことはなくて、一方的に被害体験だけを持つ。

 朝鮮を植民地支配したのが大和民族だったのなら、私は恨み言を言わないが、支配者が百済系朝鮮民族帰化人の子孫だったとなると話はまったく別だ。

 ここで気になることがある。百済系帰化人に支配されている日本の国で、新羅系帰化人はどうなっているのだろう? 百済系に呑み込まれてしまったのか。それとも部落出身とされ、侮られたのは彼ら新羅系だろうか。そういえば、戦時中「支那のチャンチャン坊主(言いだしっぺは新聞だった)」「朝鮮坊」という呼称で他国を蔑む一方で、私たちは日本が大和民族だけの優秀な単一民族だと教え込まれて、自尊他卑精神を植え付けられた。これこそ百済人の心を持つ為政者が発信元だったのではないか。百済系血筋であることを隠したいから「単一民族」を強調したのではないか。いずれにしろ、大和民族は彼らに利用されっぱなしの被害者でありながら、加害者にされてしまった二重の被害者だ。なんとおめでたくて、哀れな存在であることか。

 日本政府は、支配層の中心が百済系帰化人の子孫であることをありのまま正直に国の内外に公表し、堂々と血筋を明かしてくれないだろうか。大和民族の立場を救うためにそうして欲しいと思う。大和民族の心を持つ国民は、自分たちが百済系帰化人から二重の被害を受けてしまった立場だという事実をしっかりと認識した上で、このことを全世界に示そうではないか。この先また同じことが繰り返されかねないから、それを防ぐために。

 中国に対する侵略も、朝鮮への植民地支配も、大和民族のふりをした百済系帰化人の仕業だった、つまり唐(中国)や新羅(朝鮮)への仕返しであったことを、世界中の人々に知ってもらう必要がどうしてもあると思う。中国や韓国との関係改善のためにはそうしなければならない。

 

 ここで大日本帝国時代の支配者百済系帰化人が日本国民をどのように扱ってきたかを、私の記憶を辿って書いてみよう。そして、何が問題かをしっかりと考えてみたい。

 

十三歳の少年兵

 十三歳の少年兵だったのは私の兄である。一九四〇年、中学校一年修了と同時に兄は陸軍幼年学校に入った。愛知県の親元を離れて、金剛山の麓にある大阪陸軍幼年学校で合宿生活による厳しい軍人教育を受け始めたのである。わずか十三歳の少年にとって、それはどんなに寂しく辛い年月であったことか。日本の国はなぜあのような早期軍人教育を推し進めたのか。いぶかしく思えてならない。

 夏休みに入って四か月ぶりに帰省した兄は、小ぶりの軍服に身を固め短刀を腰に下げて、身のこなしもきびきびと愛らしくて凛々しい少年兵に変貌していた。当時の日本では「僕は軍人大好きよ、いまに大きくなったなら、勲章付けて剣下げてお馬に乗って、はい、どう、どう」の歌と共に戦争ごっこが男の子たちの遊びだった。陸軍幼年学校による早期軍人教育は、軍国主義高揚のための秘策だったろうか。

 陸軍幼年学校の入試がかなり難関だったのは、国の政策として各中学校へより多くの生徒を受験させるよう、示唆に富む通達がなされていたからであろう。教師が生徒の一人一人を呼んで説得する形を取ったと聞くから、兄は追い詰められて受験した一人だったかも知れない。海軍の方も同様に難関の海軍兵学校があったが、もう少し年長募集だったように記憶している。海軍飛行予科練習生(予科練)も少年たちの憧れの的であった。

 当時の国の政策には不審を抱かされることが多々あるが、これもその一つだ。陸軍幼年学校から進む陸軍士官学校や、海軍兵学校などの難関をパスした優秀な若者を思い切り厳しく叩き上げて、最後は死地へ赴かせる。一般男子からの召集兵にしても、体力壮健の優れた青年から優先的にどんどん戦場へ送り、死なせてしまう。アメリカの国策は全く正反対だった。優秀な若者には恵まれた職場を与えることで軍人にさせまいとする方針を取った。アメリカは志願兵制度であった。無人飛行機を考案したアメリカ。特攻兵器を創った日本。アメリカは兵士を死なせまいと努めたのに、日本は兵士を殺したがっていたとしか思えない。百済系帰化人は大和民族を殺したかったのか。しかも優秀な人材を狙って殺した、と私には思えるのだ。

 ある夏の夕方、薄暗い縁側の隅っこで母と祖母がぼそぼそと話し合っていた。クシュンと鼻水をすすり上げる音が聞こえたので、思わず耳をそばだてた。

「やっぱりヒロシは死ぬことになるかなあ」

「そりゃあもう、お国に捧げた子じゃもの。死なないかん身じゃ」

 兄の身を案じての会話だった。「君死にたもうことなかれ」とうたった与謝野晶子の詩そのままの心情を私の家族も味わっていたのだ。我が家に限らない、国民の多くが味わった辛苦の情。どんなに切ない思いであったことか。

 

軍人教育の柱

 少年兵たちが受けた教育の柱は何だったか。それは「潔く死ぬ人間を作り上げること」の一語に尽きた。生への執着は人にとって最も強い本能である。それを断ち切らせるために大日本帝国が用いた手法は何だったか。いま改めて振り返ってみると、はっきりしたものが見えてくる。

「万世一系の神の子孫である天皇」を至尊の存在として、若者たちの胸中に崇拝の念をしっかりと植え付ける。それが柱の中心だった。崇拝の念が強烈であれば、若者たちは惜しみなく命を捨てる。死ねば靖国に祀られ、神である至尊の天皇が礼拝下さる。日本国民としてこれに勝る栄誉はない、とばかり、若者の心を靖国神社へ誘い込むのである。私は兄の陸士卒業アルバムの中にその姿をはっきりと見た。そこには「靖国で会おう」の合言葉が溢れ返っていた。「貴様も俺も死ぬのだ。死のう」ということだ。靖国に祀られることが彼らの目標になってしまったのである。読んだとき、私は頭がくらくらした。それは人間の尊厳を完全に抹殺した非人道的世界だった。

 

靖国参拝はなぜ問題か

「天皇制」と「靖国」はしっかりと結びついた関係にあり、軍国主義の促進強化のための強靭なシステムになっている。靖国参拝が問題になるのはA級戦犯合祀が原因だ、とする見方は単純かつ浅過ぎる。もっと深いところに靖国を礼拝することの危うさが潜んでいる事実に気付かねばならない。

 福島新吾(二〇一三年五月、九十余歳で没)が言い残した言葉は重い。

「あの戦争は政治に先見性がなくて陸軍の強硬論を砕くことができなかったから起こった。人々の目を惑わせた最大のガンは神格化した天皇制信仰であった。それを基にする言論思想の自由の制約であった」

 ずばり的を射た発言である。天皇個人がいかに善良な方であっても、天皇制という制度は嘘と隠しごとがいっぱいあって、得てしてそういう所には危険を伴うことが起こりやすい。世襲の天皇制が続く限り、日本の国は世襲の百済系権力軍団の天下が続き、軍団の配下には忠実な官僚が存在して国を操り続けるだろう。街頭演説第一声に「人間には命を捨てても守らねばならぬものがある」と言った人が権力の座に着いた。あの言葉は今にまた大和民族の血を流させようとする予告の響きがあって恐ろしい。大切な隣国である中国(唐)と韓国(新羅系)への憎しみが心に潜んでいるかも知れない百済系帰化人の子孫が天下を取っていては、アジア平和が遠のくのではないか心配だ。天皇制と靖国神社が温存されたため、戦争好き氏族が復活して日本は再び戦前へ戻り始めた。言論弾圧が年毎に強まり、崖っぷちへと私たちは歩かされている。これを止めようとする賢人は、策略のでっちあげによって犯罪者に仕立てられ、次々と潰されていく。原発反対者もご多分にもれない。これでは中国に負けない独裁ぶりではないか、と思えてしまう。

 いつからか「安倍さんは民主主義を壊すつもりか」「安倍さんは怖い」といった声ばかりが私の耳に入ってくるようになった。高齢者の多くは、今の政治の独裁をとても不安がっている。なのに新聞は問題の人を「好評だ」と書きたてるのがどうもおかしい。戦時中の大本営発表同様の情報操作ではないか、の声が出始めている。敗戦によってやっと手に入ったあの伸びやかさは一体どこへ消えてしまったのか。枠のはめられた新聞しか読めなくてはつまらない。日本国民の知性がどんどん低下しつつある。

 

本当の戦争責任者は誰か

 あの戦争は一部軍国主義者が起こしたもので中心となったのは陸軍だった、とされ東条英機に責任が被せられたが、実態はそんな単純なものではなかった。吉田裕『昭和天皇の終戦史』その他の戦争史資料によれば、大日本帝国軍国主義の原動力は陸軍が長州(山口県)、海軍が薩摩(鹿児島県)だったという。明治以降の薩長閥の支配力の強さは人々の知るところである。明治維新功労者とされた氏族が薩長だった。その力が受け継がれて明治政府がつくられ、大日本帝国が誕生し、次々と戦争を起こしていった。その延長が日中戦争、対米英戦争であった。人の手柄は我がものに、我が罪は人に押し付けることの得意な薩長が、自ら起こした戦争の責任を巧妙に、陸軍関係者の中の薩長人ではない人物に負わせた、とする説には信憑性が感じられる。

 東条英機の父・東条英教陸軍中将は陸大を首席で卒業した俊才だったが、本籍が岩手であることから長州閥に睨まれて出世が遅れた、と本人も英機も感じ取っていた。対米英戦が避けられない情勢になった真珠湾攻撃の五十日ほど前に、東条英機を首相に推したのが他ならぬ長州閥だった。難しい対米英戦の責任を、彼らにとっては異邦人である東条英機におっ被せたというわけだ。東条におっ被せた人として近衛文麿の名も挙がっている。近衛文麿は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫だと推察されている。長州閥の思惑通りに事が運んで、東条英機は重罪戦犯として刑場に消えた。

 戦争の源流は満州事変から始まった日中戦争にある。対米英戦はその影響による結果に過ぎない。ところが、東京裁判では対米英戦を表に打ち出すことによって、肝心の日中戦争の責任をぼかす努力をしたのが公卿グループだった。公卿は言うまでもなくその中心が百済系帰化人の子孫である。

 東京裁判で死刑になったのは、広田以外がすべて陸軍軍人であった。陸軍がほとんど全ての責任を負わされた形になったのである。陸軍の軍人被告たちは怒りを抑えきれなかった。絞首刑の判決を受けた武藤章は一九四八年九月二十五日の日記に次のように書き残した。

「日本歴史は公卿の罪悪を掩蔽(えんぺい)して、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。武人、文に疎くして歴史を書かず、日本の歴史は大抵公卿もしくはこれに類する徒が書いたのだから、はなはだしく歪曲したものと見ねばならぬ」

 心して味わいたい内容である。彼の言葉を翻訳すると、戦争責任は百済系帰化人たちにこそある、ということになりかねない。近衛文麿を筆頭に、長州閥も公卿もその中心となったのは百済系帰化人を父祖とする人たちだった、という説に注目すればそういうことになる。

 どうやら、本物の責任者に限って、責任を他におっ被せることばかり考え、企むものらしい。

 日本の歴史は、神話に始まって古事記、日本書紀ともに藤原一族により彼らの都合のよい形に書き換えられてしまったとの説が有力になってきたが、昭和もその延長線にあったと考えられる。日本という国は藤原氏を頭に戴いた百済系帰化人の子孫に引っ掻き回されっ放しのまま現在に至っている。

 

百済系帰化人による仇討ち

 考えねばならない重要な問題がある。既に軽く触れたけれども、大事なことだから念入りに復習する。彼ら百済系帰化人に植民地支配された朝鮮と侵略された中国、この二つの国の歴史を百済の国が滅びた時代まで遡って見てみよう。百済を滅ぼしたのはどこの国だったか。それは新羅と唐の国である。新羅は植民地支配当時の朝鮮であり、唐は日中戦争のときの中国である(聡明なあなたはもうお気づきであろう)。百済系帰化人である日本の支配者は、自らの父祖の国を滅ぼした者への仇討ちを果たした。それがあの中国侵略であり、朝鮮の植民地支配だったのである。朝鮮との関係をこじらせたのは伊藤博文であった。日中戦争は近衛文麿が中心となって進めていった。近衛文麿は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫であると思われる。百済系帰化人の子孫である天皇を神として敬い、同じく百済系帰化人の子孫近衛文麿の指示に従って、日本国民は必死に戦った。お人好し大和民族は、そのように百済系帰化人にまんまと利用されて、彼らのために命を投げ出した。その上に中国侵略と朝鮮支配の汚名を着せられてしまった。だから二重の被害者だったのである。

 

朝鮮学校

 日本の支配層の中心が百済系帰化人の子孫であることに加えて、かつての大日本帝国にそっくりな北朝鮮が日本人と韓国人を拉致したことから、私はより深く日本と北朝鮮との関係を知りたくなった。日本各地に朝鮮人集落が現在も依然として存在していることや、日本人の中に完全に溶け込んで日本人然として暮らす朝鮮人もかなりいると知った。具体例を挙げてみると、私の出生地春日井では近隣のあちこちに個々に居住していたことは既に書いた。現在住んでいる名古屋市でも朝鮮人集落が点在していると聞いた。知多半島に住む人の話によると、知多には二つの朝鮮人集落があって、彼らは共通して性格がきつく、神道に所属しているとのことであった。ここで私は朝鮮学校の実態を調べることを思い立った。意外なことに、日本に存在する外国関係の教育機関としては、断トツに朝鮮学校が多くて八十余校も設置されていた。

 幼稚班、初級学校、中級学校、高級学校、大学校の種類があって、初中高併設の学校、中高級学校、初中級学校の形があり、幼稚班が付設された学校もある。校長は北朝鮮本国の金総書記の決裁によって決まる上に、元校長や元教員があの日本人拉致問題に関与して指名手配になっている。朝鮮学校の校長が朝鮮労働党に直結した政治活動家であるにもかかわらず、朝鮮学校が温存していることの不思議を思わずにおれない。日本支配層の核に百済系帰化人の子孫が潜在し、同族である北朝鮮人首脳と陰に繋がっているのではないかと私は疑う。拉致問題の解決に力を発揮できるのは彼らであろう。

 教育内容が北朝鮮本国とまったく同じであるため、その弊害に気付いた保護者の中には子弟を一般の公立校へ入学させる例が増えて、朝鮮学校の生徒数は減る一方となり、一九七〇年代には四万六千余名だった生徒数が、二〇〇九年には八千三百名にまで減少した。そのため学校数も七十三校(うち休校が八校)に減った。私の住む名古屋市でも中村区と千種区に朝鮮学校があったけれど、生徒数の減少のため、千種区の学校は中村区の学校に吸収合併されたそうだ。不思議なことに、生徒必ずしも全員が北朝鮮国籍とは限らず、北朝鮮籍と韓国籍がほぼ同数あり、さらに帰化人と思われる日本籍が数パーセント存在する。

 朝鮮学校に対しては北朝鮮から教育援助費や奨学金が送られているが、日本側としても朝鮮学校に校舎や机の備品を無償譲渡したり(伊丹市)、市有地を五十年にわたり無償で貸したり(大阪市)、相場の百分の一の賃料で四十五年間提供していたり(尼崎市)、といった支援を行なってきた。韓国系学校についても調べてみたが、こちらは四校の存在に留まり、特に意外性はなかった。国交のない北朝鮮とこれほどに密接な関係を持っているとは甚だ奇怪である。

 

北朝鮮という国

 朝鮮学校を調べた結果から分かったのは、日本という国がいかに朝鮮民族と深く重くつながっているかが歴然としてきたことだ。朝鮮学校の教科書内容では朝鮮戦争の最初の頃の勝利が、優れた指導者将軍様の力と勇敢な兵士たちの死闘の賜物だと表現するが、中国の援軍によることはひた隠しにしている。このように物事を自分の都合のよい形に偽る上に偏重した教育を行なっている点から始まって、軍国調よろしく整然と閲兵式に行進する兵士たちの手足の先まで力をみなぎらせる硬直ぶりは、かつての大日本帝国そのままだ。大日本帝国軍人の姿はそっくり北朝鮮へ移動してしまい、日本にもうその面影は見られない。大日本帝国が恐ろしかった私は、北朝鮮にも恐怖を覚える。北朝鮮という国は共産主義であることを別にすれば、「天皇」が「総書記」と呼称を変えただけという感じだ。日本は北朝鮮と血を分けた兄弟国のように見える。血筋の繋がりを外部にはひた隠しにして他人のふりをしているが、その実、裏では太く繋がっていることをいま初めて知った。奇妙なことに思えてならない。大日本帝国がアジア全域制覇を狙ったのと同じように、北朝鮮もまたアジア制覇を目標としているのではなかろうか。韓国や日本を呑み込んでしまうつもりではないだろうか。百済民族という民族はうぬぼれ強く謀略によって他民族を制圧支配することばかり企む人種だろうか。かつての大日本帝国がそうであったし、北朝鮮という国も同様だからそう思えてくる。拉致事件がそれを臭わせる。あの拉致は日本や韓国を自分の国に呑み込まんがための準備工作ではなかろうか。朝鮮学校の存在が大きな役割を果たしていることに私は危機感を持つ。「同族だから仲良くしよう」ではなくて「同族だから呑み込んでやろう」とする恐れのある北朝鮮に、韓国と日本の大和民族は気を許せない。

 

韓国と北朝鮮

 どちらの国も日本にとって大切な隣人であり、また親戚のようなものだと私は思う。理解しあえる円満な関係になりたい、と心から願わずにいられない。日本は無論のこと、この二つの国にも平和を愛する穏健な政治家が立ってくれることを熱望してやまない。日本に植民地支配されていたことに対しては、韓国は恨みがましいことをずいぶん聞かせてくれた。しかし北朝鮮からはそうした声があまり聞こえてこない。それもそのはず、植民地支配時代、日本は朝鮮北部に対してはかなりの恩恵を施してきた。植民地支配の朝鮮北部へ技術者として赴任した夫に従って渡り、あちらで暮らしたという老婦人から直接体験談を聞いたことがある。

――まったく何も無い所へ私たちは行って、自分が住む家からして造らねばならなかった。橋だ、鉄道だ、工場だ、といっぱいお金と技術をつぎ込んで国づくりをしてきた。――

 というその話から察すると、恐らく百済人は北部に多く住んでいたのであろう。日本国民は絞られ利用されっぱなしだったが、朝鮮南部も絞られ側だったことを考えると、百済を滅ぼした側の新羅系の多くは朝鮮南部に居住したからであろう。大日本帝国の支配者は日本人でありながら、その実百済人の心を持っていて百済人を同志として愛していたということではないか、と思える。

 

敗戦後の日本

 マッカーサー元帥は天皇制をうまく利用しながら、日本を民主化させようと頑張った。彼の意向を汲み取って、昭和天皇は民主化に精一杯努められた。「血が濃いのはよくない」と言って皇太子妃に百済系ではない日本土着民の美智子妃を迎える力になった方であるだけに、大和民族を愛していられたに違いない。では百済系帰化人勢力はどうなったか。勢力の要であった近衛文麿が戦犯に問われ自決したことによって、いったんその勢力は衰えたものか。それとも大和民族を愛する天皇のもとでは力を発揮できなかったということだろうか。

 八十四年生きてきた私の生涯の中で一番良かったのは敗戦後の昭和時代であった。敗戦によって地下室から地上へ躍り出たような解放感が味わえた。陽光降り注ぎ、薫風吹き渡る地上のなんと快いことか。平和、自由、平等、女と庶民階級にとっては実に楽しい世の中に変わった。特に言論の自由は嬉しかった。書くことの好きな私は、いっぱい新聞に意見を載せてもらった。とはいっても、A級戦犯をうまく逃れ、策略家だとの噂高い岸元首相の存在は恐怖だった。「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻すこと」がこの人の政治目標であった。安倍首相の動きを見ていると、一族の目標でもあるらしい。安倍首相は岸元首相の外孫であり、岸を非常に尊敬しているようだ。

 昭和天皇が高齢になられ、重篤に陥られた頃から日本は明らかに右傾化。百済系帰化勢力が復活して動き始めたと考えられる。日本は回れ右をし、大日本帝国再建を目指す国になってしまった。なぜこうなったか。察するに平成の天皇は敗戦のとき十一歳という幼さだったし、宮中の空気だけを吸って成長されたため、私達から上の世代の国民が切実に味わった戦争悲劇の本当のところが、よくお分かりになれなかった。そのため、復活した百済系帰化人の軍団に付け込まれてしまったのではないかと思う。韓国に対して、「『縁』を感じる」と言われた天皇のお言葉が韓国の人たちに好意的に迎えられたのはよかったと思うけれど、反面、昭和天皇とは異なる側面を見る気がした。ともあれ、平成時代となって国民も戦争を知らない世代がほとんどになった。大日本帝国再建を企む百済系帰化人の子孫にとって好都合な時代になってしまった。

 大日本帝国時代がそうであったように、いまの日本もまた、まともな意見を言う人が片っ端から消されている。私のような無名の者ですら、天皇家の血筋うんぬんを書いたことでブラックリストに載せられたらしく、以後は何を書いてもボツになって新聞への意見発表が不可能になった。私に限らず、他の人たちからも同様の嘆きが伝わってくるようになった。言論弾圧の網の目は日本中に張り巡らされたことが分かる。恐ろしい日本になった。

 国民の目や耳や口を塞いでしまう政治家の独走を許したままでは、日本国民は幸せになれない。大和民族よ、塞ぐ手を払いのけて、よく見よう。よく聞こう。そして、どうしたら国民が幸せになれるか、についてみんなで考えねばならない。

 

敗戦前の天皇像と、敗戦後の天皇像の違い

 敗戦までは天孫降臨、万世一系という虚偽によって作り上げられた天皇像だった。敗戦以前の偉大なる天皇は、ご真影という形の写真でしか国民の前に姿を見せることはなかった。尊い、尊い、神の子孫だから、畏れ多くて国民は直接そのお姿を拝することができなかった。天皇のお出ましは大元帥陛下として、白馬にまたがっての閲兵だけだった、と私は記憶している。それは当時の支配者、つまり天皇制の黒幕である百済系帰化人子孫が天下を取り続けていくための手段だったのである。

 これが敗戦と同時に一変した。

 敗戦は日本を支配していた百済系帰化人の子孫たちにとって、死活の分かれ道となった。天皇制が廃止されたら万事休す。その高い地位を失いたくない彼らは、国体維持すなわち天皇制継続だけを条件に降伏の道を選んだ。結果、天皇は日本の象徴として存在されることになった。彼らは平成のいま、これを君主に戻そうと必死である。万世一系は嘘、天孫降臨も嘘、実は明治天皇は朝鮮人集落の出身者であったという、明治維新の真相を知る人が増えつつあり、「天皇は朝鮮人だ」という声が巷のあちこちで囁かれるようになった。そこで彼らが考えたのは、天皇から離れようとする国民の心を引き寄せるために、天皇、皇后に公務という形で民間人との接触の機会を増やすことだった。完全に、敗戦以前とは逆の形になった。

 受賞であれ、被災のお見舞いであれ、園遊会であれ、天皇、皇后から直接お言葉を頂いた人々は恐らく、私が歌会始の折の拝謁によって天皇、皇后に好感を抱いたのと同様に、お二方に対して好感と親しみを抱かれるであろう。それが天皇の背後に控えている百済系帰化人組織の狙いだ。天皇の人気が上がれば、そのまま彼らの地位安泰に繋がるからである。

 天皇、皇后に親しみを覚えた国民は「別に天皇が朝鮮人だってかまわない」という心情になる。民族の全体とは言わないまでも、傾向として大和民族はそういうお人好しなのだ。優しくおとなしい民族なのだ。これも全部とは言わないが、きつくて天下取りばかり考える傾向の強い百済系帰化人にとって、こんな扱いやすい民族はないだろう。天皇の背後に百済系帰化人の子孫が組織化して控えて、大日本帝国に戻そうとしている。その事実に注目すると、彼らの存在は恐ろしい。彼らの精神は明治維新から繋がってきている。何しろ、天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯しながら、何食わぬ顔をして功労者然としてきた氏族である。彼らが築き上げた天皇制というシステムは怖いが、天皇個人は別である。むしろ逆に天皇をはじめ皇族は痛ましい立場であられる。あの近衛文麿もまた昭和天皇の暗殺をもくろんだ一人であったことを考えると、この先、天皇、皇后の身だって風向きが変われば、いつどんなことになるやら。皇族の身の上も安心できない。

 天皇制の黒幕は二本立てになっていて一本は百済王子豊璋(藤原鎌足)の直系子孫近衛文麿を核とするもの。もう一本が明治維新功労者とされた氏族の子孫たちであろう。何しろ、天皇を暗殺してすり替えた同志たちだから、彼らこそ国民のみならず、天皇はじめ皇族をも支配している恐るべき独裁者なのである。日本国民を不幸にするのは彼らだ。いや、彼らの中の一部の曲者というべきか。

 秋の殊勲賞受賞者の氏名が発表された。明治維新の真相を知ってしまったいまの私は、複雑な思いでこのニュースを見た。私の歌会始などとは段違いの栄えある殊勲賞受賞の方たちの胸の高まりはいかほどであろうか。祝福の思いのある一方で、それだけでは済まされないモヤモヤが私の胸中に湧き出てくる。

 明治維新のとき、天皇暗殺とすり替えを行なった百済系帰化人の子孫が、日本の支配者の中心となり、天皇制を継続させることによって日本支配の座を守り抜いている、というこの事実を知らない方々が有難く賞を受けられるのは、人として当然の心理である。この方々の偉業に対しては素直に祝福申し上げたい。だが、他方に文化勲章を辞退された大江健三郎氏がいられることにも注目したい。氏が文化勲章を辞退された理由は、私の思いと同じではないかも知れないが、私は大江健三郎氏の偉業を称えると共に、気骨と勇気に脱帽する。

 

血筋に貴賤は無い 貴賤は精神にこそある

「天皇家の血筋が尊い」と書いた櫻井よしこ氏は戦争が終わった年の秋に出生された方である。氏のこの言葉は私を仰天させた。なぜかと言えば「天皇は尊い神の子孫だ」と言われて私たちは酷い目に遭った。あの戦争である。私たち戦争体験者は「天孫降臨、万世一系」を信じ込まされ、「神である天皇のために死ね、死ね」と言われて戦い、多くの命が失われた。敗戦によって天皇が人間宣言されただけでなく、その後、国を憂える正義の歴史家の手によって天孫降臨も万世一系も嘘だったと知らされた。あの戦争は、天皇家を神の血筋だと偽ったことから出発していた。だから、血筋を問題にする思想には恐怖を覚える。「天皇家の血筋が尊い」と言われると背筋が寒くなる。再び戦争をおっぱじめる国になりはしないか、と不安になるからだ。戦争を知らない世代の危うさを思う。

 天皇家の血筋は神でも万世一系でもなくて、本当は百済系帰化人の子孫だった。私は血筋に貴賤があるとは思わない。貴賤は精神にこそあるのだ。だから天皇家と同じ血筋の百済系朝鮮人ならば天皇をその血筋ゆえに崇拝するということができるだろうが、他民族の自然の情としては無理があって当然ではなかろうか。他民族にまで共感を求める筋合いのものではないのに、かつて彼らは大和民族を含む他民族に天皇崇拝を押し付けた。結果が「八紘一宇」と称して天皇のご威光を全アジアに広めるという名目の戦争、つまり侵略であった。「八紘一宇」とは戦時中に政府が国民に示した理念であったが、天皇のご威光のもとに世界を一つの家のようにする、という主旨だ。何のことはない。侵略を表現する飾り言葉である。八紘一宇を掲げた大日本帝国が行なったことといえば、策略、暗殺、戦争、つまり人殺し常習犯ではないか。

 自らの血だけを尊び、長たらんと欲した百済系帰化人の子孫は、大和民族を犠牲にして近隣国アジア諸国をも痛めつけてしまった、というのがあの戦争の実態なのだ。「天皇家の血筋が尊い」という戦前思想を、いま再び押し付けられるのは真っ平だ、と私たち世代は思う。戦争によって目覚めたからこその思いである。戦争を知らない世代はどうにも危なっかしくて見ておれない。戦争体験によって私たちが開眼したことの重要性に気づいて欲しい。民主主義に必要なのは崇拝の対象などではない。みんながお互いを尊重しあう精神こそ必要なのである。敗戦によってせっかく私たち庶民の手に入った「自由」と「平等」とそして「平和」がどんどん逃げていく。どうすれば呼び戻せるのか。

 

日本はなぜ陰湿国家か

 何年前だったか、ブータン国王が来日されて、その表情がとても温かくて自然であることが印象に残った。明るさ、優しさが満ち溢れてお幸せそうだった。きっとブータン国民も国王の温情に包まれて幸せであろう。

 反射的に思ったのは日本の皇室の姿である。こちらは自由からほど遠い重圧のもとに置かれた痛ましさがある。日本は国民の表情も暗い。私がそれに気づいたのは二十年ほど前にアメリカやベネズエラに旅行してのことだった。先進の民主国アメリカは明るくて当然だろうが、発展途上国ベネズエラの人たちも明るかった。ベネズエラは民主国だ。やっぱり国民を幸せにするのは本物の民主主義だ、と痛感した。彼らに較べると日本人は総体に暗く活気がなくてよどんだ感じだ。それに日本は先進国の中で断トツに自殺率が高い。

 原因はどこにあるのか。重圧感、閉塞感が漂っている日本。それが国民の心を暗くする原因に違いない。なぜそれがあるかが問題だ。経済低迷などもあろうけれど、これは日本に限ったことではない。他国にもある。日本の特徴を挙げれば「皇室タブー」が浮かぶ。皇室タブーは「言論弾圧」と「不平等感」という不幸を生み出す。これが閉塞感となり自殺多発に繋がっていくのではないか。皇室タブーの仕掛け人は天皇制の黒幕、百済系帰化人の子孫だ。つまり、国民への愛情を持たない異民族に支配されているがために生じる閉塞感だと私は思う。

 日本がアメリカやベネズエラのように明るく活き活きした国になるためには、正体を隠した異民族支配から解放されることが必要だ。だが、天皇制と政界の世襲制がそれを阻んでいる。

 国を動かす権力者は、何よりも国民は無論のこと他国民をも深く愛する人でなければならない。温情と正義、そして賢さが必要だ。そういう人は殺人など犯さない。敵対国を作らない。平和を築くだろう。

 ところが・・・。日本は・・・。

 好戦策略家だった帰化人の子孫が権力を握り、国民の不幸などものかは、自分たちにとって都合のよい国づくりを目指して暴走している。

「早く止めないと日本は駄目になる」

「いや、もう駄目になった。民主主義は死んだ。政界の世襲制が日本を駄目にしてしまったんだ」

 口を塞がれた見識者たちの密やかな呟きが広がりつつある。

    テキスト ボックス: 『増補版 私の不思議な体験』著者(84歳)
http://bunei321.cocolog-nifty.com/
(二〇一三年 十一月十九日)

墓標は語る

『琅』25掲載(編集・発行 宗内 敦)に掲載したものを一部修正・転載
 
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou_index.htm

 

 私は日本の国をこよなく愛していたから、日本を悪く言われるのは不愉快だった。ところが、日本が嘘だらけの国であると知ったいまは、日本に対して腹立たしさばかりが先立つ。悪く言われて当然と思えることばかり。日本は先進国の中で一番嘘の多い国かも知れないと思う辛さ。そう思わせるきっかけとなったのは墓標だった。その経緯をできる限り詳しく正直に書いてみたい。

 

墓地の移転

 夫も私も春日井出身のため、これまで夫の墓は春日井にあった。ところが、成人した息子や娘が次々と遠隔地の関東や関西に家庭を持ったため、春日井までの墓参が容易ではなくなった。そこで思案の末、思いきって交通便のよい所へ墓を移すことにした。幾つもの候補地を見てまわった末に選んだのは、名古屋の平和公園のど真ん中にある墓地だった。バス停から徒歩三分。わきに駐車場もあるという条件が気に入った。ここなら私にとっても春日井の墓地より遥かに交通便がよくて助かる。

 墓地を移転したことによって、私の前に思いがけない運命が広がり始めた。あ、それを語る前に一つだけ説明しておきたいことがあった。夫は四男なので、春日井の生家を継いだ長兄一家が先祖代々の墓と共にニューギニアで戦死した次兄の墓を守っていた。まだ若かったときに、私はその墓参に行き、なにげなく墓標の文字に目をやって、「あっ」と思った。なんと次兄の戦死した月日は私の娘(長女)の誕生日だったのである。三百六十五分の一の偶然とは珍しいな、と思っただけで、その時はそれ以上のことは何も考えなかった。それがいまになって大きな意味あることとして私の意識にのぼり始めたのである。

 

バス停横に戦没者墓地

 名古屋平和公園墓地への交通便の良さが嬉しくて、私の墓参がにわかに頻繁になった。とはいえ、ふだん地下鉄に慣れきった身にはバスの待ち時間がいささか退屈ではあった。周囲は右も左も見渡す限り、墓の行列だ。高台になっていて緑も多く、まるで墓の団地といった風情である。

 帰りのバスを待つ間、私はベンチに腰かけて、あちこちを眺めまわしたり、立って行って墓地を囲んでいる柵によりかかって、柵の近くに立つ墓標の文字に目を凝らしてみたりした。

 柵に近い位置の墓地は、ちょっと周辺のそれとは異なっていた。幼児ほどの背丈の小ぶりな柱が、これも小ぶりの四角いコンクリート台の上にちょこんと立っている、という粗末な墓標が整然と五百基ほど並んでいる。脇に「戦没者墓地」の表示があるがその姿には、まるで高級住宅地の隅っこにある貧民街を連想させる侘びしさが漂っていた。

 或る日、墓参帰りのバスを待ちながら例によって柵に寄りかかって漫然と小さな墓標を眺めていた私はそこに「大正」の文字があるのに気づいた。「えっ、大正? ここは戦死者の墓地でしょ。どうして大正なの? 大正時代に戦争など無かった筈なのに」 好奇心が頭をもたげてきた私は、柵に沿って入り口へまわり、初めて戦没者墓地へ足を踏み入れてみた。

 小さな墓標が集団になって立っているところから少し離れた位置には、対照的にでっかくて一基が畳一枚くらいの大きさで、趣のある形に変化させた立派な碑が数十基並んで建っている。土地も庭先ほどの余裕を持たせた面積を占めていた。確認するまでもなく、それは位の高い軍人の碑であり、当然ながらこちらの小墓標は兵士たちに違いない。人間社会の格付けがこんな形で墓にまで持ち込まれていることに、私は義憤を覚えた。かつて戦時中に見慣れていた軍服姿の若い兵士たちの姿が、忽然と脳裏に蘇ってきた。

 この人たちは一体、いつ、どこの戦争で亡くなったのだろう。私はどうしても知りたい。苔むして読み取れない文字を指でなぞったりして調べてみると、意外にもほとんどが明治らしい。しかも十年、十一年、十二年とのべつ幕なしなのが不思議である。このままでは終われない心境になってしまった私は、五百基はある墓標の戦没年月をぜんぶ調べてみよう、と思い立った。一日や二日では無理だから、出直すことにした。筆記具も必要だ。暑くも寒くもなしの好天の日を選び私は数回足を運んで、墓標を順番に一つ一つ念入りに調べていった。折れて頭のなくなったものや、苔に覆われてしまってどうしても読み取れないものもあって、結局、五百三基のうち、戦没年月の読み取れたのは三百八十五基であった。

 

墓標から謎が生まれた

 調べ終わった結果を表にまとめた。ひと目で分かる形のグラフにしてみたところ、なんと、明治十年から始まって、四十三年まで毎年切れ目なく多数の戦死者が続いているではないか。なぜ? どうして? おかしいではないか。


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註)グラフ作成後に、別の個所に同様小型タイプの墓標の小集団を見つけた。読み取れる分が明治37、8年に限られていたから日露戦争の戦没者かと推測したが、そちらの分はこの表には加えなかった。


 明治時代といえば、二十七、八年の日清戦争と、三十七、八年の日露戦争しか知らなかった私としては意外でならない。この二つの戦争の分は除いて考えることにしよう。この墓地に立つ墓標は昭和八年を最後としており、明治、大正、昭和初期までという限られた期間の戦没者であるが、明治四十三年を境にしていっぺんに戦没者が減ったことには何か意味があるのではないか。考え巡らせて浮かんだのが伊藤博文がこの頃に暗殺されたことだった。伊藤博文の死亡が、日本の歴史の流れを変えたのか。彼はそれほどに大きな存在だったのだろうか。私は彼を追ってみようと思い立った。

 古書店で見つけ出したのが斉藤充功著『伊藤博文を撃った男』であった。まず、表紙の左上には撃った男、安重根の写真が、右上には伊藤博文の写真が載っている。それを見比べてみた。「目は口ほどにものを言う」と言われるが、犯罪者の確認はその目を見るのが一番だと私は信じていた。見れば見るほど安重根の目は澄みきっている。それに対して伊藤博文の目には複雑極まりない翳りがある。安重根は根っからの正義漢だな、と私は直感した。本の内容を読み進むに従って、その確信がいっそう強まっていった。非は伊藤博文にあることを、この本は暗に示してくれていた。

 

問題は明治維新にあった

 伊藤博文が中心となって立ちあげた明治政府であり、大日本帝国だ。それは明治維新によって誕生した国家である。となると、明治維新に注目する必要がある。私は明治維新について調べてみる気になった。

 新古書店やインターネットで、明治維新に関する本を探しまわった。そしたら、あるわ、あるわ、明治維新の偽りを暴く書がぞくぞくと・・・・。

 最初に手にしたのは、一九九七年に初版が刊行された鹿島曻の書『増補版・裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』だった。孝明天皇と睦仁親王が暗殺され、別人・大室寅之祐が睦仁親王の替え玉として明治天皇となった、という思いがけない真相が暴露されていた。この書のために著者は暗殺されたそうである。

 となると、書かれたことは事実に違いないし、想像を超える悪質な犯罪組織の存在が臭ってくる。出版社を乗っ取られ、再出版を阻まれた状態にあったのち、著者の友人・太田龍氏が奮起して二〇〇七年、本書の再出版を実現させた。効あって、明治維新の真相が世に知られ始めた。鹿島曻の書の内容の信頼性を高める種類の書が複数の人々によって次々と刊行されるようになった。それらを照合しながら読み進むに従って、私にはかなりのものが見えてきた。真っ先に思ったのは、明治維新がなかったならば、日本は戦争を起こすような国にはならなかった、ということである。

 明治維新という犯罪の成就は、大日本帝国という殺人国家を誕生させてしまった。明治から昭和敗戦までの大日本帝国の足跡を辿ってみれば一目瞭然である。戦没者墓地の墓標から生まれた私の謎が、解けるところまではいかないが、明治政府にはまるで殺人鬼のような面があったことを初めて知った。台湾征討、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、済南事変、満州事変、支那事変、太平洋戦争。明治から昭和敗戦までわずか七十年ほどの間にこれだけの戦いを繰り返して、国民に多大の辛苦を舐めさせてきたのだ。さすが天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯して立ち上げた政府だけのことはある、と言えよう。

 

百済人が天下を取った明治維新

 明治維新にはさらなる秘密が潜んでいた。首謀者集団は土着民族ではなかったのだ。山口県の田布施という朝鮮人集落の出身者が主となり、鹿児島県の朝鮮人集落出身者がこれを援けて明治維新を起こしたのだった。すり替わって明治天皇となった大室寅之祐及び、安倍晋三首相の祖父・岸信介元首相、大叔父の佐藤栄作元首相も共に、山口県田布施の出身者だったのである(THINKER『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』参照)。私は血筋がいけない、などと言うつもりはない。帰化人であろうとなかろうと、同じ人間同士、上下などありはしない。血筋がいけないのではなく、血筋をごまかす精神がいけないのだ。百済系朝鮮民族の血筋を神の子孫だと偽って、日本国民をかしずかせた、その嘘つき精神に対して怒らずにおれないのだ。こうなると、歴史認識についても、中国や韓国側の言い分が正しいかも知れない、と思えてくる。更に広がって領土問題だって、どちらが正しいやら、と思えてきてしまうではないか。自分の国を信じられなくなる、とは何とも哀しいことだ。日本国家は、今からでも真実ありのまますべてを国民に告白すべきであろう。

 

彼ら百済人はどこから来たか

 朝鮮人集落がどうしてできたか、については朝鮮半島の百済の国が滅びたときまで遡らねばならない。植民地支配の時代にもかなりの数の朝鮮人が日本へ渡ってきて定着した。帰化もした。しかし、支配層となったのは彼らとは別の時代に来日した集団だと考えた方が確かであろう。

 遥か昔の六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が新羅と唐によって滅ぼされたとき、王子を核とする一万人近い百済人が集団となって日本へ亡命してきた。日本の天皇は彼らを温かく迎え入れて、複数の者に官職を与え、近江の広大な土地を与えて彼らを住まわせた。まるで第二の百済国のようだったと言われている。その後、日本各地に朝鮮人集落が点在するようになった。ここで加えたいのは、あのルーツ不明とされていた藤原鎌足こそ、百済から亡命した王子豊璋その人だったことだ(関裕二『藤原氏の正体』参照)。素性を隠したまま、その一族は巧みに日本の支配者になりおおせてしまったのである。王子豊璋という人間の悪どさを受け継いだ一部の子孫が日本にもたらした害毒は、測り知れない大きなものとなった。

 

大日本帝国と北朝鮮

 実によく似ている二つの国。大日本帝国時代を生きた者にだけ分かることだが、大日本帝国がそのまま復活して北朝鮮になったのではないか、と錯覚するくらいにこの二つの国はそっくりである。二つの国の支配者が同じ民族・百済人だというのは、間違いない事実だと思う。この二つの国こそ、戦争好き百済人にとっての理想国家なのかも知れない。多分、そうであろう。韓国の元大統領金大中が百済人だとの説も頷ける。彼は日本へ亡命して身を隠していた時期があったが、受け入れた日本にも百済人がいることに意味を感じる。金大中が北朝鮮のボス・金正日とにこやかに抱き合った姿は印象深かった。小泉元首相も金正日と握手を交わした。互いの表情はちょっと硬かったけれども。小泉元首相の父祖も鹿児島県の田布施(山口県の朝鮮人集落と同名)という朝鮮人集落出身である。北朝鮮のボスが自ら会い、握手を交わす相手はだいたい百済人であることが多い、と聞く。それだけ血に対するこだわりが強いのだと考えられる。世襲制というのも、血族尊重の表われだ。日本も北朝鮮も共に百済人を世襲制によってトップに頂いている点が共通しているのは興味深い。これは注目すべき非常に重要な事実である。

 加えて問題にしたいのは、植民地支配時代の日本政府のあり方だ。朝鮮北部と朝鮮南部に対する対応が違っていた。その理由が問題だ。政府は朝鮮北部の整備に非常に力を入れた。その証拠に植民地支配時代に、技術者や研究者及び資金の多くを朝鮮北部へ送り込んだ。まったく何もない所へ家、橋、鉄道など、様々な建造物をつくったと書でも読んだが、赴任した技術者の夫人から直接聞いたことがある。それに較べて南部朝鮮に対しては冷淡で、逆に搾り取った。日本本土からも搾り取った。この不均等の原因はどこにあるか。日本と朝鮮を支配していたのは、日本人であったが、どうやらその精神は百済人であったらしい。自らの祖国・百済の地または住民を優遇したということではなかったか。

 

百済人は、日本の先住民族を追い出した

 私の猜疑心は膨れ上がっていく。

 日本政府は国民を捨てた。「ブラジル移民も満蒙開拓団も移民ではなくて、棄民だった」と住井すゑは『住井すゑ対話集3』の中で語ったが、私も同感である。日本の人口が過剰だと言って荒地へ追い出し、辛苦を舐めさせた。敗戦になったとき、どれだけ多くの人が日本へ帰れないまま満蒙の地で苦しみながら亡くなったことか。私は星亮一著『満州歴史街道』を泣きながら読んだ。井出孫六氏が新聞や雑誌に書かれた文から長野が特に多く満蒙開拓団員を送りだし、中国残留孤児の悲劇を生んだと知った。日本政府は人殺し国家ではないか、と心に叫ばずにはおれなかった。どんどん移民させた一方では、労働力不足を理由に朝鮮半島から沢山の人を日本へ連行した。これはおかしい。先住民を追い出して朝鮮民族によって日本の国を埋め尽くしたかったのではないか。私はそう疑っている。その疑いは現在も消えていない。日本の支配者であり続ける百済民族が私は恐ろしい。

 

大日本帝国は殺人国家だった

 大日本帝国の残忍さは特攻兵器にはっきりと顕われている。片道燃料だけで基地を飛び立って行き、敵に体当たりして兵器もろとも自爆する、という世界に二つと例のない残酷極まりない戦術を、百済人は創り出した。それに乗って自爆していったのは土着日本人だ。

 小学校一年の私たちが習得した教科書は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に始まって、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と明らかに軍国主義の開花であった。死んでも口からラッパを放さなかったキグチコヘイや爆弾三勇士の絵。大きな爆弾を三人の兵士が抱えて敵陣へ突っ込む。これはまさに特攻戦術そのものの姿を描いている。サイタ サイタ サクラは「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜かな」に通じる。日本人たる者は、桜のようにパッと潔く死ぬべきだ。命を惜しむな、の意味である。

 私が小学校二年のとき、支那事変が始まった。授業中に担任の小川百合先生が言われた。

「男の子たち、大きくなったら兵隊さんになって潔く死ぬのですよ。お国のために死ねますか」

 一瞬、シーンと静まり返った教室。と、一人の男の子が呟いた。

「ボク、死ぬの嫌だ」

 それに力を得たように、教室は「死ぬの嫌だ」「嫌だ」「嫌だ」「嫌だ」の大合唱になったのであった。心密かに私は思った。男に生まれなくてよかった、と。あの情景、雰囲気を私は決して忘れることができない。戦う国、戦った国は世界のあちこちに存在するだろうけれど、あれほどしつこく国民、子供にまでも死ぬことを強要する国家は大日本帝国の他にはあるまい。どう考えてもおかしい。私はこだわり続ける。

 戦没者墓地で墓標の文字をなぞっているときもこの情景と、男の子たちの大合唱を思い出して涙が滲んできた。私には、大日本帝国という国家は国民を一人でも多く殺したがっていた、としかどうしても思えないのだ。組織の中心にそういう願望を持つ権力者が潜んでいたに違いない気がする。食糧を補給できない広範囲の南方の島々へ兵士だけは次々と送り出した。作戦の拙さだと言われているが、果たしてそうだろうか。意図的に兵士を殺したがっていたのではないか。日本の軍規は捕虜になることを禁じていた。捕虜になるよりも死ね、と自決を促した。これがおかしいのだ。世界どこの国も捕虜を認めあい、互いの捕虜を交換の形で生還させていた。それを許さないのは日本だけだった。殺人国家と言わずして、何と言おう。

 

アジア制覇を狙った百済民族

 一九四五年、日本が戦争に負けたとき、私は数え十七歳だった。大日本帝国を知るぎりぎりの世代ということになろう。

 大日本帝国は、聞くもおぞましい国であった。「忠君愛国、滅私奉公」をスローガンに私たちは辛苦ばかりを負わされた。人権無視。国民は牛馬と同じ労働力に過ぎない。小学生までが駆り出される。忘れもしない。小学校四年生の私たちは、軍馬の食糧にする干し草を夏休みの間に一人一貫目ずつ刈り集めて学校へ供出させられた。一口に一貫目というけれど、「ちわら」という草だけを探し求めて、家からかなり離れた堤防まで通い、刈った草を集めてそれを天日に干す。すると量が減ってしまう。子供の力でこの作業を続けるのは、大変なことだった。遊ぶ時間もなくなる。また、学校の授業時間に藁を持ち寄ってそれで細縄をなったこともある。

 女学校時代は学業をなげうって、工場で働き続けた。工場では月に二回の電休日があったけれども、その日は登校を義務付られていた。神である天皇の尊さをしっかりと教え込まれながら、焼け跡整理や防空壕掘りに励んだ。戦いが激しくなって工場も学校も空爆を受けて焼失し、どちらでも焼け跡整理の仕事が山積みになった。工場で働いているときに、B29による集中空爆を受けて私たちは防空壕から逃げ出して田んぼの中を泥んこになって走った。敗戦になり、工場をひきあげて戻った学校は、運動場の真ん中に大きな爆弾の穴があった。教室の窓ガラスは全部割れて飛び散ってしまい、その後片付けに追われた。教科書なく、教科担任もいない学校だから授業が成り立たなくて、学校生活は作業の連続の挙句に卒業式を迎えた。

 冷酷な支配者のもとで老若男女を問わず、日本国民の誰も彼もが苦しんだが、不幸は日本国民だけではなかった。支那大陸、朝鮮半島、南方の島々の人たち、日本の敵国となった五十一か国の人たち、合わせて五千万もの死者を出したことは、大日本帝国の恥ずべき足跡である。大日本帝国はこのようにとんでない国だった。

 にもかかわらず、反省心なくて、性懲りもなく、また戦争のできる国を目指すとは。とても正気の沙汰とは思えない。どうしたら愚かな為政者を排除することができるのか。

 日本を戦争を起こさない国に変えるためには、なぜあの戦争が起こったか、なぜ戦争を起こす国だったかを細かく、深く掘り下げて考えなければならない。

 

我が子たちの誕生日に意味があった

 長女の誕生日が夫の兄の戦死した日だったことは冒頭に書いたが、今になってそのことに私は意味を感じ始めた。戦死者たちの霊に導かれるように、墓標がきっかけとなった形で、次々と明治時代の歴史を調べ始めた私に、ここで忽然と蘇ったのが、義兄の祥月命日に長女が生まれたことの奇遇についてであった。あれは単なる偶然ではなく、義兄が私に訴えかけたくてこの偶然を起こしたのだろう。二十代の若さで、人生の楽しみを味わうことなく戦場に散っていった悔しさはいかほどであったか。

「俺たちをこんな目に遭わせたのは一体誰だったのか、調べてくれ。力を貸すから調べてくれ」

 と叫んでいるに違いない気がしてきたのである。

 誕生日の不思議な一致は長女に限ったことではなかった。次に生まれた息子も、その次に生まれた末娘も、因縁の深い日に生まれていたのだ。それに気づかせてくれたのは、末娘の言葉だった。

 或る日、末娘が言った。

「お母さん、お兄さんを憲法記念日に生んだのも不思議な偶然だね」

 言われてみれば確かにその通りである。正真正銘五月三日の午前零時四十分に生まれた。予定日より二日早かった。現在の私は九条を守り抜きたいとの情熱をたぎらせているので、佳き日に生まれたものよ、と思う。国民の命を軽視する支配者の下での九条の精神骨抜きはいかに危険極まりないことか。戦争を体験した世代には痛烈に感じ取れるのだ。続けて末娘が言った。

「それだけではないよ、お母さん。私の誕生日だって意味がありそう」

「えっ、どういう意味が?」

「三月七日に生まれたから『みな』にしようと思ったけれど、『みなさん』と呼ばれたとき『皆さん』とこんがらがるから『なみ』にしたって、お母さん、言っていたでしょ。ところがこの『なみ』がすごい。『なみ』だったことで、私の名前には『みなもと』が入っているのだから。お母さんの先祖は清和源氏だと聞いているけど、その源が私の名前にはある」

「あっ、そうか。貴女の姓名を漢字で書いて、下から読んでみると『みなもとやま』になるね。『みなもと』が入っているなんてすごい。それに気がついた貴女もすごい」

 この子の場合、出産予定日が来て陣痛促進剤を打ってもまったく反応なく、予定日より三週間も延びてのお産だった。もしも予定日通り二月に生まれていたならば「奈実」と命名することはまずあり得なかったと思う。それだけではない。夫の兄妹たちはどの家庭も申し合わせたように二人ずつの子持ちである。ぶちまけて言えば、夫自身も子供は二人までと決めていた。それを子供好きの私が押し切っての末娘の誕生だった。夫の反対は生半可なものではなくて、何日も口をきいてくれないかと思うと、今度は逆にぷりぷり怒り散らす、当り散らすという抵抗を見せて、私に中絶を迫った。が、私はしぶとく堪えた。

 末娘をなんとしても現世に送り出そうとした先祖たちの、必死な力が私を応援してくれたに違いない。

 それほどまでにしてなぜ、先祖は末娘を現世に送り出したか。何気なく命名したのに「みなもと」だったことから推察して、ようやくそこに私は霊たちからのメッセージを読み取ることができた。

 「我がミナモトの子孫よ、どうか二人で力を合わせて明治維新の悪業や百済民族の野望を世に広めて、日本国民を百済民族の毒牙から救い出してくれ」 そう訴えているように今は思えてならない。それに応えるべく、私は老体に鞭打ちつつ、必死にこの原稿を書き進めてきた。原稿そのものは百パーセント自分だけの力で書いているというものの、パソコンへの打ち込みとか、歴史について私の無知を補うなど、助手になったり師になったりしてくれる末娘。私は大助かりである。

 

明治維新、昭和維新、そして平成維新

 二・二六事件は昭和維新とも呼ばれていた。その首謀者は明治維新同様に山口県出身者だった。平成の今また維新の会が登場。大阪、東京、名古屋と明らかに右傾組織が大都市を狙っての扇動だった。維新を名乗るからにはやっぱり、二つの維新と同列の組織が絡んでいるに違いない。つまり百済民族。思っていた以上に大きく組織化されているということかも。

 彼らの目的は明治維新でつくった大日本帝国を復活させ、日本国民を使って、百済の仇討ちを果たすことであり、アジア制覇が最終目的であろう、と私は推測する。彼らは個人ではなく、百済系朝鮮人による非常に大きな組織として隠れて存在し、常に再起の機会を狙っている。維新の会登場は私にそう感じさせた。単なる私の疑いに過ぎないのならよいが、当たっていたら恐ろしいことだ。日本国民の未来はどうなるか。

 

日本の国を構成する民族

 日本を構成しているのは、アイヌ人、琉球人(沖縄人)、加えて大和民族、これだけの土着民族ばかりであり、日本は単一民族だと子供の頃の私たちは教えられた。ところが、大違い。もう一つ、百済人という民族が日本の仲間だった。いや、仲間どころか、血筋をごまかした狡い支配者だった。つまり百済人という存在をひた隠しにし、大和民族になりすましていたのだ。この中で土着民族でないのは百済人だけ。彼らの先祖は六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が滅びた時、日本へ集団で亡命してきた一族だった。亡命、渡来というのは土着と較べものにならないほど大きなエネルギーを要する。それを乗り越えてきたからには、かなり荒っぽい活動家と考えられる。

 何人種であろうと、帰化すれば同じ日本人だ。仲良くすればいい。ところが、この氏族は支配欲の強烈さ、策略好きにおいて他に類を見ない、卑劣極まりない氏族だったのである。それが明治維新という犯罪によって、日本の国の支配者にのし上がってしまった。彼らにとっての理想は大日本帝国だった。敗戦によっていったんは民主化されようとした日本を再び引き戻して、大日本帝国再建を夢見ている彼ら。憲法九条改正、核武装が夢実現への第一歩である。

 

温かかった中国、アメリカ

 敗戦から七十年近くも経った今頃になって、しきりに思い出すことがある。完全に敗北した日本の国に対する、それまで敵国だった国々の態度について、だ。

 当時、私の兄は軍人として満州に配属されていた。この兄が八月十五日戦争が終わった後すぐ、九月早々に突然元気な姿で復員してきて、家族をびっくりさせた。その後の新聞記事によって知ったことだが、クリスチャンであった蒋介石総統は「仇を恩で返す」と言って、敗戦と同時に日本兵を帰還させた。中国兵たちは地団太を踏んで悔しがりながら、その指示に従った、と聞いている。

 また、占領した日本を見てアメリカの偉い人が驚きの声を挙げた。「日本人は働き過ぎだ。体が壊れる。もっと休みなさい」 それを新聞で読んで私は思わず涙をこぼした。なんと優しくて温かい言葉だろう。私の国・大日本帝国の偉い人たちは「死ね、死ね」とは言ったけれど、「体が壊れる」なんて「休め」なんて一度も言ってはくれなかった。

 ここで思うことは、中国もアメリカもその支配者は、当時の日本の支配者とは大違いに人間らしい心の温かい姿で浮かび上ってくる。冷酷だった大日本帝国が、果たして本当に正義の国だったか? 人情家の中国、アメリカが悪だったとは、信じられないではないか。どちらが正しくてどちらが間違っていたかについて、考えさせられる。

 話のついでに加えておこう。心の温かいアメリカがつくってくれただけに、昭和憲法は戦争を食い止める大きな力になった。九条の骨子は得難い宝だと私は思っている。

 

地獄のような軍隊生活

 少女時代に、治療を受けに行った歯医者で軍服の兵士に出会った。小牧飛行場に内地勤務する兵士らしくて、三人揃って順番を待っていた。上官に頬を殴られて奥歯がガタガタになったための治療だと話し、耳をぶたれて聞こえなくなった兵に較べればマシだと言った。小学生の私たちですら先生からぶたれる時代だから、兵隊さんは当然だろう、ぐらいにしかこの時は思わなかった。

 ところが、兄が十三歳で陸軍幼年学校に入学したことによって、私は初めて軍隊生活の厳しさ、恐ろしさを知らされた。上官の人柄にもよるだろうが、軍隊のお仕置きは生半可なものではなかった。動作が鈍い、寝起きが悪い、整理がよくない、と実に些細なことで殴る、蹴るの挙句、失神すると水をぶっかける、などは日常茶飯事。体罰が過ぎて死亡しても戦死扱いである。

 天皇が神だった時代、身の回り品はすべて天皇からの御下賜品ゆえ、損ねたり紛失したりすれば半死半生の目に遭わされた。兵士の命は物品より遥かに軽かったのである。兵士に限ったことではない。すべての国民に、人権など与えられなかったのである。

 慰安婦問題にしても、慰安婦が存在したか、しなかったかではない。慰安婦を人間として扱ったか、道具として扱ったか、の違いが国際的に問題にされるのである。大日本帝国がいかに残酷だったかは、戦争を知らない世代には到底分かりっこない。南京大虐殺にしても、慰安婦問題にしても、当時を知らない世代は、口を挟まない方がよいと思う。

 

軍隊生活で人が変わった兄

 金剛山の麓にあるという大阪陸軍幼年学校生になった兄は、夏休みと冬休みしか帰ってこなかった。兄の後ろについて、魚すくいや蝉取りをする楽しみを奪われて、私はいっぺんに寂しくなった。晴れて鈴鹿山脈がくっきりと見える日には「兄ちゃんはあの山の向こうにいるのだなあ。会いたいなあ」と思っては山脈を眺めた。

 敗戦になって帰還してきた兄は、すっかり人が変わっていた。六年間の軍人教育に加えて、純粋な青年にとっては戦争に負けた悔しさが加わり、自分の気持ちを制御できなかったせいもあろうと思うが。

 或るとき、母に口答えをした私は、すっ飛んできた兄によって水辺へ引きずっていかれ、顔を水中に突っ込まれた。息ができなくて苦しいのなんの。死ぬ思いだった。弟も同じ目に遭わされた。

 この体験によって、軍隊生活のお仕置きの怖さが分かったのである。兄は、軍隊生活の影響が抜けたらしくて、やがて昔通りにやさしい人に戻ってくれたけれど。

 

農民一揆・九年間に三百五件

 いや、もう、驚いたの何の、私の直系先祖が同志と共に明治政府に楯ついていたとは。小学館刊『日本の歴史24 明治維新』(一九七六年)記載文によって初めて知った。

 幕府とは比較にならない過酷な税を課す明治政府に国民の怒りが沸騰。士族からも、農民からも、日本全国津津浦浦に亘って一揆が起こった。その件数たるや、物凄い。農民一揆は明治六年から十四年まで九年間が最も多く、計三百五回も起こっている。しかも、その抗争が全国一に激しかったのはなんと愛知県春日井郡だというのだ。それは現春日井市、つまり私の故郷である。

 村議員や村の地主一同が協議して、県の作成した収穫分賦書拒否を決定したのが始まりだった。この運動は全国へ広がっていった。ここで思い出したのは、娘時代の私が地域に古くから住む老人からしばしば聞かされた言葉である。

「貴女のご先祖さんは偉い人じゃった。とても堅いお家で、地域のためにいつも一生懸命奔走された」

 その言葉から察して、我が先祖が急先鋒だったとしても不思議はない気がする。年代からいうと私の曽祖父の活躍であろう。曽祖父といえば十二代源三郎である。私が自分の守護霊に思える、と既刊拙著の中に書いたのが、その人だ。

 春日井郡の村民が立ち上がったのは明治十年六月二十二日。あっ、ここで妙な偶然に気づいた。あの憲法記念日に生まれた我が息子の、その長男の誕生日が六月二十二日だ。先祖の霊には、ひょっとしたら子孫を望む日に出生させる力があるのだろうか。

 

歌会始がきっかけになって

 この孫息子が生まれたからこそ、私は宮中歌会始へのご縁を頂くことになった。ずっと昔二十代のころに、三年間ぐらい短歌に凝ったけれど、それきりで短歌を忘れ果てて暮らしてきた私だった。それが、孫息子が生まれた嬉しさからであろうが、珍しく一首を作った。出産で嫁が入院中の間だけ手伝いに行っていて、孫娘と一緒に洗濯物を干していたら、ひょいと浮かんだ一首。

 

    我が孫と 空の青さをほめ合いつつ 洗濯物を干し終えにけり

 

 手直しだの推敲だのは一切せず。幼稚ではあるが、しかし佳い歌だと思った私は、たまたま翌年の歌会始のお題である「空」の字が歌の中にあるがため、詠進する気になった。初詠進である。まさか入選するとは夢にも思わなかったので、内定通知を受けたときは本当にびっくりした。

 初めて参上した宮中では、いまだに天皇が神扱いされていることに違和感を覚えた。だがその反面、天皇はじめ皇族方の自由のなさはとても痛ましく思えて、それ以来私は、なぜ天皇制があるかについて真剣に考え続ける人間になってしまったのである。

 

ふたたび農民一揆について

 農民一揆に話を戻そう。県の作成した収穫分賦書拒否の運動は、翌十一年四月にかけて四十三カ村へ拡大し、更に他の三十カ村にまで影響していった。協議に協議を重ねたが、県の改正事務局ではらちが明かないと悟って、愛知県の農民たちは東京へ代表を送った。この代表の帰郷を何と二万余の農民が出迎えたという。人間の溢れる都会とは違って、村民の二万人とは凄い数である。生活と命をかけた農民の必死な思いが伝わってくる。だが、東京の官側もまた冷淡だった。

 怒った農民達は遂に天皇への直訴を決定した。直訴しようと集まった農民の数四、五千人にのぼった。だが、これも官側の圧力で不発に終わった。圧力どころか脅迫だった。曰く、「分賦書拒否は至尊である天皇への反抗だから、皇国に居住する権利はない。アメリカ、ヨーロッパなど、海外へ出ていけ。さもなくば分賦書を受け入れよ」と言う。なんと冷酷な恐喝だろう。

 

曽祖父・源三郎からのメッセージ

 ここまで書き進めてきたところで、不意に強烈なものが私の胸に突き上げてきた。「オレ、オレ」 俺、俺、呼びかけの言葉? 曽祖父であろうか。私が守護霊と思っている曽祖父、その人の意志らしいものが伝わってきた。叫びと言おうか。私はそれに従ってペンを走らせるしかない。かなり強い語調だ。

 

 ・・・・・・農民の辛苦を分かろうとしなかったお役人たちに一言申し上げたい。最後の恐喝文、あれは実に酷い。渡来民族が先住の土着民族に向かって「出ていけ」とは何事か。お前たちは自身が渡来であることをひた隠しにしておるが、隠蔽そのものからして大問題だ。日本の国を乗っ取るという野望があるから隠蔽が必要だったのだ。この機会に、後世の識者たちの審判を仰ごうじゃないか。これを読んだ日本人の一人一人に考えてもらおうじゃないか。

 アメリカかヨーロッパへ行け、の一言でお前たち百済民族の本音が丸見えになったぞ。なぜ、アジアの隣国ではなくて、アメリカ、ヨーロッパなのか。アジア全域を百済民族のものにしようと考えておる野心の大きさが分かったぞ。

「日本の土地は、俺たち百済民族がもらった。先住民のお前らは邪魔だからさっさと他国へ行け」というつもりだろうが、そうはさせぬぞ。我が日本の国を百済民族に乗っ取られたまま黙ってひっ込むわけにはいかないのだ。俺の力で必ず、必ず、日本国民にお前たちの野心を気づかせてみせるぞ・・・・・・

 

 以上を曽祖父からのメッセージとして、私は受け止めた。アメリカかヨーロッパへ行け、の一言からアジア制覇の野望を見抜いた曽祖父の眼力のなんと鋭いことよ。(註)ところで、この「オレ、オレ」の呼びかけを受けたのは、曽祖父の祥月命日七月十九日の頃だった。二、三日経ってから「あっ」という思いでそれに気づいたので、あわてて註を入れることにした。

 さて、話を戻して、農民一揆は岡山、徳島、石川、福井、長野、福岡、和歌山、茨城、三重、岐阜、などなど、全国いたる所に続発。官側によって謀殺されたり、処刑された人数五万余名とは、何と恐ろしい国だろう。

 ここで、ふと私の脳裏に蘇った母の言葉がある。

「この地区はなあ、所有農地をお上に申告するに当たって、真っ正直にそのまま届け出た。ところが、よその地区は実際よりも少なく申告するのが常識になっておったらしい。闇の土地を持たない者は資産が多くても生活が苦しかった」

 そうだったのか。正直者は馬鹿を見たというわけだ。母の言葉から私は我が先祖を、激しい農民一揆に駆り立てた理由が分かった。生一本、真っ正直、正義感の塊のような先祖の姿が浮かんできた。それに対抗した官僚の冷酷ぶりは腹立たしいが、しょせん薩長(百済)人の冷たさだった。その体質は明治維新が生んだものであった。明治政府の構成を見ると、ほぼ七十パーセントを薩長(鹿児島県、山口県)が占めていた。大臣長官は言うに及ばず、次官地方役人に至るまで薩長だった。旧和歌山藩出身の睦奥宗光(大蔵少輔心得)は次のように嘆いている。

「今や薩長の人に非らざれば、殆ど人間に非らざる者の如し。豈嘆息すべきの事に非らずや」

 この明治政府は名を連ねるのは薩長が多かったけれども、内実は旧幕臣層の力が大きく働き、その知恵に支えられて明治国家の基盤がつくられたのであった。

 

日本イコール百済

 韓国の数学者・金容雲著『「日本イコール百済」説』を読むまでもなく、明治維新が百済人による天下取りだったし、天皇も百済人でいらっしゃるから、いまの日本は百済国と言われても否定できない。百済人だからいけないなどと言うつもりはないが、百済人の血ばかりが尊ばれ、政治家、官僚、マスコミ、経済など多くの面で、能力優先であるべきところを、百済系優先の社会に作り変えられてしまった。例を挙げれば、勲三等までは朝鮮人で占められているとか、官公庁の中には、本籍が朝鮮人集落でないと出世コースに乗れない省庁があるなどと言われている。

 策略家で闘争好きの百済民族が、温厚実直な大和民族を抑えて、その能力を潰すことは、決して日本の発展につながらない。アジア平和のためにもならない。

 

住井すゑの言葉

 図書館のリサイクルで思いがけなく手に入った『住井すゑ対話集3』は考えさせられることが多かった。住井すゑの頭脳の鋭さは驚嘆に値する。一九〇二年、奈良県に生まれた彼女は、地域の長老たちと共に橿原神宮や天皇御陵が根拠のない土地に造られていくインチキをしっかりと見据えながら育った。全国から大樹を集めて境内に移植し、紀元二六〇〇年の祝賀が催されたこと、歴代天皇の名が明治に作られたことなどから、住民たちは天皇制のごまかしを充分に知り尽くしていた。だが殺されるのを恐れて口には出さない。才知と正義に溢れる彼女は「偽り」と「言えば殺される」ことを容認できなくて、逆に批判精神を高めていった。

 一九九四年に、フィリピンのF・ショニール=ホセとの対話で、住井すゑは次のように語っている。

「天皇制思想というのは、もう最悪のものです。これで日本人そのものも不幸になるし、周辺も不幸になる。世界に災いを及ぼすものは天皇制ですよ。日本からこれを取ってしまえば、日本という国はすばらしい民族の国だと思います。」

 この対話集が刊行されたのは一九九七年である。二〇一三年のいま、これだけのことを口にしたら無事ではすむまい。殺されるか、社会的に葬り去られてしまうであろう。第一、書の刊行も難しかろう。それは何を意味するか。いま、またもや日本は策略家に完全にのさばられてしまった。つまり、かつての戦争直前と同じ言論弾圧。この後にはもっと重大な事態が待ち構えているというわけ。なんとしても食い止めねばならない。

 策略は人を殺す。人を活かすのは叡知である。策略家を国家権力の座に置くのは危険極まりないことだ。叡知が策略を上手に抑えることができれば、初めて平和は守られていくのである。

                         (二〇一三年七月二十八日)

明治維新の真相

『ちば文学』第11号掲載          

編集 ちば文学会・発行 文化芸術村の会


恐ろしかった大日本帝国

天皇を元首にするって?

再び大日本帝国をつくろうというのか

私は嫌だ

あんな恐ろしい国にはもう決して住みたくない

 

   女学生だった私は工場で働いた

   食べる物なくて お腹ぺこぺこ

   一年三百六十五日 一日も休みなく

   工場で 学校で 家で

   働いて 働いて 働き通した

   神である天皇のために

   死ね 死ね と言われて

   沢山 沢山の人が死んでいった

   忠君愛国 滅私奉公を求める大日本帝国には

   どこを探しても 自分の幸せなど見つからなかった

   あるのは不幸ばかり

   不幸なのは大日本帝国国民だけではなかった

   支那大陸 朝鮮半島 南方の島々の人たち

   日本の敵国となった五十一か国の人たち 合わせて五千万が死んだ

   空襲警報が昼間二回 夜間二回鳴り響き

   防空壕へ入る気力もなくなった時

   やっと戦争が終わった

 

占領した日本を見て アメリカの偉い人が驚きの声を挙げた

「日本人は働き過ぎだ 体が壊れる もっと休みなさい」

それを新聞で読んで 私は思わず涙をこぼした

なんと優しくて温かい言葉だろう

私の国 大日本帝国の偉い人たちは「死ね 死ね」とは言ったけれど

「体が壊れる」なんて「休め」なんて一度も言ってはくれなかった

私はもうあんな冷酷な大日本帝国の国民にはなりたくない

 

   私は確かにこの目で見てきた

   戦争好き大日本帝国の悪業の数々を

   なのに 大日本帝国は反省しなかった

   反省がない者の罪は 永久に消えない

   あれほど苦しめた国民に対して

   ただの一言も詫びなかった

   詫びない者は 再び同じ過ちを繰り返す

   日本の 戦争好き為政者を

   反省させない限り 詫びさせない限り

   日本国民は 再び虐げられ

   アジアの平和は 再び壊されるだろう

 

 

明治維新が大日本帝国をつくった

 安倍首相が日本を再び戦争のできる国にしようと必死になっている。安倍首相といえばその一族が明治維新に大活躍した。私は八十の手習いならぬ修行のつもりで歴史の勉強を始めたことによって、明治維新の真相を知って驚愕した。明治維新に対して強烈な嫌悪感を抱いてしまった。こんな嘘で塗り固められた日本は嫌だ。許せない、と思った。そんな時に維新の会が登場。策略の匂いがプンプン。これは放っておけない。勇気を出して書かねばと思い立った。

 年頭に首相が伊勢神宮へ参拝するのが慣習になっているようだが、慣習をつくったのは安倍晋三首相の大叔父に当たる佐藤栄作元首相だった。この一族の父祖は日本の隠された歴史の中の極めて重要な位置にあった。問題は明治維新に秘められている。大政奉還の美名に隠された明治維新だが、本当は天皇を暗殺してすり替えて政権を略奪したというのが真相である。『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』(THNKER)は、この事件について意外な事実を述べた。「首謀者は長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)の朝鮮人集落の人たちだった。すり替わって天皇になった若者大室寅之祐も、岸信介元首相・佐藤栄作元首相兄弟もそろって山口県の田布施という朝鮮人集落の出身者だ。小泉純一郎元首相の父は鹿児島県の同じ田布施という名の朝鮮人集落の出身者である」と。

 『幕末維新の暗号』(加冶将一)は、明治天皇にすり替わる前の大室寅之祐が、髪型や衣装は異なるが、顔立ちだけは明治天皇のご真影そのままの若者の姿で、同志らに囲まれて写っている「四十六人撮り」写真を掲載して信憑性を高めた。

 また、『増補版 裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』(鹿島曻)には、「岸・佐藤兄弟が議員を務めていた昭和四十年代に、明治維新のこの隠された部分にスポットライトを当てて歴史を明らかにするための議員提案がなされようとした。ところが、岸・佐藤両議員がその書類を握り潰して、問題をもみ消してしまった」という驚くべき内容の記録が残されている。著者は暗殺されたとの噂がある。

 つまり「大日本帝国」は朝鮮人集落の陰謀家が中心になって、明治維新を起こすことによってつくり上げた好戦国だったのである。昭和の敗戦によって、いったんは平和な民主国になり始めた日本だが、平成のいまは違う。右翼台頭。またもや中心は朝鮮系の氏族であり、天皇制がその核である。「日本は天皇を中心とする神の国だ」と言った森喜朗元首相や、靖国参拝の慣習をつくろうとした小泉純一郎元首相たちはその重鎮であろう。天皇制の母体となっている朝鮮系氏族にとっては、靖国神社も伊勢神宮も強力な武器である。天皇制が続く限り、彼らはその武器を失うことがなくて、支配者であり続けるだろう。明治維新の功労者、つまり陰謀家の性格を注視してみると、暗殺好き、戦争好き、策略によって天下を取るのが大得意であることがうかがえる。そうした強烈な性格の氏族に支配されているのは恐ろしいことだ。彼らのルーツについては『藤原氏の正体』(関裕二)、『歴史教科書 あなたはどう考える』(澤田洋太郎)から次のように推測できる。

六六〇年頃、朝鮮半島の百済の国が滅びたとき、一万人近い大集団となって百済人が日本へ亡命してきた。日本各地に朝鮮人集落がつくられた。その子孫が明治維新を起こして大日本帝国をつくり、日本の国の支配者にのし上がってしまった、と推察できる。彼らに庇(ひさし)を貸して母屋を乗っ取られた土着民族のなんとお人好しであることよ。ここで考えなければならないのは、大日本帝国を支配していたのが、大和民族ではなくて、大和民族のふりをした渡来の百済人だったことの重大性である。

あの苦しい戦争を体験したから、八十余年を生きてきたから、前掲の参考図書を読んだ私に歴史の真実がくっきりと見えてきたように思う。同期生十余名が集まった席で、私が明治維新の真相を書くつもりだと話したところ、全員がこぞって「書くのは危険だ」と心配し、必死にとめてくれた。その手を振り払って、私はこの文を書いている。命がけだ。長崎市長が暗殺されたのは安倍首相のときだった。靖国問題で加藤紘一氏の実家が放火されたのは小泉首相のときだった。本当のことを言う人は片っ端から消されていく。なんと恐ろしい日本だろう。このままでは国民のみんなが益々不幸になっていく。だから私は黙っておれないのだ。

冷酷で戦争好きだった大日本帝国

 維新によって生まれた明治政府は冷酷極まりなかったため、士族の反乱にとどまらず、農民一揆や住民騒動に至っては明治六年から十四年までひっきりなしに続いた。多い年は六十一件、少なかった年でも十六件、平均すると年間

三十四件の割合で起こり続けた。国民の不満の強さがうかがえる。農民は年中休みなく働いても、働いても、貧しくて苦しい生活を強いられた。農家の娘として敗戦時に数え十七歳だった私は、その現実をつぶさに見て育った。『日本の歴史 24 明治維新』によると、旧幕政のほうがよかったというもの七割に対し、新政府支持はわずか三割にすぎなかった。一方で天皇家の財宝は増え続けて敗戦の時には、占領軍の調べによると世界中の王国の中のトップだった。加えて明治維新に始まる大日本帝国時代は、外国に対する戦争を立て続けに起こした。大日本帝国は天皇家を肥やすことと、戦争を起こすことのために、ひたすら国民を絞りあげたことになる。天皇制が続く限り、日本は再び恐ろしい大日本帝国に変身しかねない。天皇制の是非を国民のみんなで考えなければならない時期が来たと思う。重要なのは日本の国が戦争を起こしたのは大日本帝国時代に限られていたということ。この点に注目したい。

 江戸時代の二百六十五年間には外国との本格的な戦いはなかったし、昭和の敗戦から現在までの七十年近くの間に、日本は外国と一度も戦わなかった。ところが、明治維新によって誕生した「大日本帝国」時代はどうだったか。台湾征討、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、済南事変、満州事変、支那事変、太平洋戦争。明治から昭和敗戦までわずか七十年ほどの間にこれだけの戦いを繰り返して、国民に多大の辛苦を舐めさせてきたのだ。さすが天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯して立ち上げた政府だけのことはある、と言えよう。

日本の地雷は「天皇制」

 日本は中国や韓国から、首相の靖国参拝を咎められ、歴史の見直しを求められているが、この二つの問題は百済人が黒幕になって政界を動かしているがため生じたことだと考えられる。百済人支配の核は天皇制そのものである。天皇制を支えているのは神道であって、彼らが用いる武器は靖国神社と天皇の祖が祀られているという伊勢その他の神宮であろうことは前に述べた。

 なんといっても危険なのは靖国だ。靖国神社では年中行事として、青少年百人を対象に「国のために死ねる若者を養成するセミナー」を開いている、と神道系の新聞が報じていた。とんでもないことだ。恐ろしい。靖国神社は即解体して宗教から完全に切り離さないと、日本の若者たちの命が危うくなる。前に立つ人の心が洗われるような、荘厳で爽やかな慰霊塔を建てて、その石碑に「もう決して戦争は起こしません」と彫ってもらいたいものだ。

 安倍首相も小泉元首相もその父祖は明治維新を起こした朝鮮人集落出身だったと記した書の中には、さらに戸籍が朝鮮集落でないと最上の出世コースには乗れない省庁の存在を示す記述もある。朝鮮人集落の人(イコール神道)の中に、日本人を見下し、自分達は天皇と同じ血筋であるとの誇りを持つ人が少なくない。これは血筋差別ではないか。平等を謳う民主主義をぶち壊す精神ではないか。おとなしい土着民族と違って、渡来人性格のきつさは日本の国に波風を立てる原因になりはしないか、との不安がつきまとう。

 ここで振り返ってみたいのが朝鮮に対する植民地支配と日中戦争についてである。あれは大日本帝国を支配していた百済人による新羅(朝鮮)や唐(中国)への仇討ちだったのではないか。盧溝橋事件も南京虐殺事件も、近衛文麿が首相の時に起こった。ゆえに近衛文麿の血筋に注目しなければならない。彼は藤原鎌足の直系子孫であるが、藤原鎌足こそ百済王子豊璋その人だったと推察される(『藤原氏の正体』参照)。覆面百済人による暗躍の恐ろしさがここにはある。

 自分の命を投げ出すよう、権力者から強制されるような国ではありたくない。それを実行したがる政治家は、百済系の氏族ではないか、と私には思えてならない。百済の仇討ちに日本国民を駆り立てたいのではないか、と。それを必死に食い止めたいがための本文である。

郵便受けに投入されたチラシ

 (チラシの表裏を二ページで出す)

「今さら何を言っているのか。生活保護費どころか、もうとっくの昔に日本の国全体が朝鮮民族に支配されてしまっているのだ。オメデタイ大和民族よ、はやく目を覚ませ!」

 と、私は叫びたい。

     二〇一三 二十七

              『増補版 私の不思議な体験』著者 (八三歳)

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「明治維新」の隠された大罪

 長州(山口県)藩士が中心となり、薩摩(鹿児島県)藩がこれを援けて一八六七年大政奉還を成し遂げたということになっているが、実は王政復古ではなくて謀略による政権奪取だった。その真相は今日ではかなり広く世に知られている。

 私も鹿島曻『増補版 裏切られた三人の天皇・明治維新の謎』(新国民出版社)、星亮一著『偽りの明治維新』(だいわ文庫)、斉藤充功著『伊藤博文を撃った男』(時事通信社)などの書から、明治維新がこれまで聞かされてきたような殊勲一筋のものではなかったことを知った。最近さらに加えての情報を得たのでご紹介したい。加治将一著『幕末維新の暗号』(祥伝社)。明治天皇に入れ替わる以前の大室寅之祐が、同志たちに囲まれて写っている写真は、耳の形まで私たちが御真影として馴染んできた明治天皇そのままなので、もはや疑う余地はなさそうだ。明治維新の裏で複数外国人の関与があったとは意外である。THINKER著『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』(徳間書店)もまた外国人の暗躍を大きく取り上げている。この書は、日本を含め全世界を操っている国際銀行家、真実を知らせてくれないマスコミ、国の内も外も欺瞞に満ちている恐ろしさをしっかりと教えてくれる。中でも特に私の注意を引いた個所を原文そのまま転載する。

「有力者の出身をたどると、山口県や鹿児島県の朝鮮人集落から政府内の重要なポストに就いている政治家が意外と多いのだ。例を挙げると、安倍晋三の祖父で首相の他数々の要職を務めた岸信介とその弟で三期首相を務めた佐藤栄作は、山口県の田布施村という朝鮮人集落の出身である。また小泉純一郎の父であり、防衛庁長官を務めた小泉純也は鹿児島県の田布施村という、同名の朝鮮人集落の出身である。

 しかし、なんといっても山口県の田布施村出身で注目すべき最重要人物は、明治天皇である。本名は大室寅之祐。通説では、明治天皇は幕末に若くして病死した孝明天皇の第二皇子とされているが、これには多くの疑惑がある。実のところは、孝明天皇は息子ともども長州藩に謀殺され、田布施村出身の若者大室寅之祐が明治天皇になりすましたという説がある。この学説は『明治天皇替玉説』というもので、歴史から葬られた日本の闇である。」

 この文を読んで、私は大いに納得した。拙著『増補版 私の不思議な体験』の中に「民族性の違い」と題して繰り返し書いてきたことだが、子供の頃、私の身辺には朝鮮語訛りの言葉を話す朝鮮人の大人をよく見かけた(その子供らは日本語が達者だったが)。彼らは気が強くて、中には日本人の子供に意地悪をする人があった。そういう一人から、私はバスを待つ列に割り込んだ、と言いがかりをつけてはじき出されたことがある。別の時に別の場所で別の朝鮮人から私の連れが私の目の前でまったく同じ目に遭わされた。日本人からはそんな仕打ちを受けたことなど一度もなかっただけに、植民地支配された怒りがそうさせただろうと察して、恨まないことにしてきた。

 こうしたことから私は民族性の違いを強く意識させられた。朝鮮人は気が強いな、日本人はおとなしいな、と。そのきつい朝鮮人の国をおとなしい日本人が植民地支配している、ということがどうにも不思議でならなかった。だから日本の国の支配者が朝鮮人だった、というのは確かな事実だと私には納得できる。そこで生じる不安がある。きつい朝鮮民族の血を引く人に政治を任せておいて大丈夫だろうか。強い国を目指したい彼らは再び日本を戦争に引きずり込んで国民を苦しませるのではないか。

 日本人の中には大和民族の他に、先住民族としてアイヌ人、琉球人がいるわけだが天下取りなど考えないこの人たちは恐らく嘘をつかない善良な人であろう。大和民族にしても、気は弱いけれども長所はある。戦時中に日本人が造って満州や朝鮮に残してきた建造物、橋などは、その後に現地人が造ったものを凌ぐ頑丈さで、長持ちしたことから、日本人の技術は高く評価されている。「日本人は頭がいい」との理由で引き揚げ時に日本人の子供を欲しがった中国人があった、との逸話も残っている。朝鮮民族(恐らく百済系)を軍人もしくは政治家タイプとするならば、大和民族は技術者タイプとでも言おうか。真面目で律儀ならではの技術、素晴らしいことだと思う。おとなしい大和民族にこそ日本の国を動かす力になってもらいたい。民主的、平和的で穏やかな国家をつくれる気がするから。

 明治維新の功労によってのし上がった人たちの血族関係者は何をもくろんでいるのか。せっかく戦後、一旦は民主化された日本が、この人たちの手によって再び好戦国に作り変えられるのではないか、私は心配でならない。                              

2012年11月9日)

右へ右へと傾いてきた日本

  このところ続出の「維新の会」が目指すのは民主主義か、それとも反民主主義か。維新といえば浮かぶのが明治維新。明治維新を否定したい人が「維新の会」を名乗るとは考えられない。本当は明治維新は謀略だった。あれは、平和主義者の日本土着民族の徳川幕府から、好戦的な百済系朝鮮民族の支配する明治政府に政権が移った、という革命だったのである。その認識が維新の会賛同者達には欠けているのではなかろうか。

 

 よくよく思い返してみて欲しい。江戸時代の二百六十五年間には外国との本格的な戦いはなかったし、昭和の敗戦から現在までの六十数年間も、日本は外国と一度も戦わなかった。ところが、明治維新によって誕生した「大日本帝国」時代はどうだったか。台湾征討、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、済南事変、満州事変、支那事変、太平洋戦争。明治から昭和敗戦までわずか六十数年の間にこれだけの戦いを繰り返して、国民に多大の辛苦を舐めさせてきたのだ。詳しくは後述するが、さすが天皇を暗殺してすり替えるという大罪を犯して立ち上げた政府だけのことはある、と言えよう。「大日本帝国」と称した期間の為政者の正体を暴き、その責任を追及すべきではなかろうか。明治維新功労者の血縁氏族が現在も依然として日本の政界に君臨しているのは問題ではないか。私は強い不安を覚える。名古屋市の平和公園にある戦没者墓地には五百柱ほどの墓標が並んでいる。それらの戦没年月を念入りに調べてみたところ、苔むして読み取れない分(二十三パーセント)を除いての集計では、なんと明治十年から四十三年まで切れ目なく戦死者が続いていた。日露戦争の明治三十七、八年には、難攻不落と言われた要塞・二百三高地で日本軍は一万七千名の戦死者を出した。その中の二十四名がこの墓地に眠っている。日清・日露戦争の四年間分を除いた年の二年毎の平均戦死者数を計算すると二十二名になる。一体、この人たちはどこで戦死したのだろう。

 

 私の記憶に残る「大日本帝国」は、人間の命を残酷に扱う恐ろしい国家だった。再び日本をあんな国に戻そうと誰かが目論んでいるのではないか、と思えるのが維新の会続出である。平成のいま、日本は敗戦以前同様に言論弾圧が強まり、君が代の強制、南京大虐殺や慰安婦問題の否定など、明らかに大日本帝国復活の兆しを見せている。ぼんやりしていると、再び好戦国日本が誕生しかねない。私たち国民は目を大きく見開いて、権威を疑い、監視する知恵と勇気を持たねばならない。

2012年11月9日)

墓標が生んだ謎

 夫の墓参の帰りに、思いついて平和公園の戦没者墓地に立ち寄ってみた。コンクリートの柱に土台があるだけの小さな墓標が五百柱ほど集団になって並んでいる。名古屋を中心に中部地方の戦死者だろうか。昭和の戦争のときのものかな、と思いながら、一本の墓標に目をやると「明治」の文字が読み取れた。そういえば苔むして古さを感じさせるし、中には欠けて文字が読めないものや折れたものもある。

 明治といえば、日清・日露戦争が浮かぶ。しかし、文字をたどってみると、二十七、二十八年、三十七、三十八年の両戦争の時だけに限らず、その他の無関係な年のものが結構多くて、その戦没年月を見る限りでは明治時代の日本がのべつ幕なしに戦争をやっていたような印象を受けてしまう。これは妙だ。

 好奇心の虜になった私はそれから数回足を運んで五百三柱全部の戦死年月を調べ上げた。苔むした墓石の文字を時には指先でなぞってみたりして、戦死年月を読み取れたのは五百三柱のうちの三百八十五柱だった。それを棒グラフに表わしてみたところ、なんと、明治十年から四十三年までは、一年の空きもなく切れ目なく戦死者が続いているではないか。大正時代は飛び飛びに一名か二名があって、昭和時代も初期に一名と二名の二回あるが、満州事変だろうか、そこで終わっている。

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 判明した三百八十五柱のほとんどは明治時代が占めていて、日清戦争の明治二十七、八年は合わせて四十七名、三十七、八年の日露戦争は合わせて二十四名である。難攻不落と言われた要塞・二百三高地の戦いで一万七千名の戦死者が出て、明治天皇が泣かれたと聞いている。この二つの戦争の戦死者数を除いた数を合計して明治の年度で割ってみた。日清・日露戦争を二年分ずつ数えたのに合わせて、その他の分も二年当たりの平均を計算すると二十二名である。なんと、日露戦争よりわずか二名少ないだけだ。明治時代の日本は一体、どこの戦争でこんなに多くの戦死者を出し続けていたのだろうか? 私の心に謎が生まれた。明治維新によって誕生した大日本帝国という国がいかに戦争好き国家だったかがこの表から汲み取れるのではなかろうか。

2012925日)

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